収録社史一覧

業種"化学工業" 社史一覧 全78件中78件 1件〜78件目を表示

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会社名 業種 社史タイトル(出版年) 会社沿革と社史メモ
旭化成(株) 化学工業 『旭化成八十年史』(2002.12) 1922年レーヨンの製造を目的に設立された旭絹織と、日本窒素肥料による我が国最初のアンモニア合成工場の2つが出発点。1933年に旭ベンベルグ絹糸として統合、1946年から旭化成となる。創業者野口遵は技師として水力発電に関わり、ジーメンス社で経験をつむ。欧米に伍して近代化学工業を発展させ、現在は繊維、ケミカル、住宅・建材、エレクトロニクス、医薬・医療、酒類等と多角化経営。
旭化成(株) 化学工業 『旭化成八十年史 : 資料編』(2002.12) 『旭化成八十年史』(社史ID:03010)の資料編
旭化成(株) 化学工業 『旭化成の80年 : Asahi Kasei: the first 80 years』(2003.06)
旭電化工業(株) 化学工業 『社史 : 旭電化工業株式会社』(1968.03)
旭電化工業(株) 化学工業 『旭電化七十年史』(1989.07)
(株)ADEKA 化学工業 『ADEKA100年史』(2017.11)
荒川林産化学工業(株) 化学工業 『荒川林産百年史 : 松脂と共に』(1977.04) 大阪出身の荒川政七(あらかわ・まさひち、1825-1904)は薬問屋に奉公の後1856年(安政3)和薬商の玉屋を開業、1876年(明9)荒川政七商店と改称。松脂を必要とする製紙産業の興隆や、農薬・塗料用などの需要増に伴い、取扱い品目が次第に松脂中心となる。品質向上に努め1920年(大9)頃からは「松脂の荒川」として業界に知られる。1943年(昭18)荒川林産化学と改称、第二次大戦後は製紙業界向けにインキのにじみを止める強化サイズ剤を提供し好評を得る。100年史は歴代経営者の時代ごとに沿革をまとめ、「日本松脂産業小史」にも多くの頁を割いている。[1977年(昭52)荒川化学工業と改称。100年史は日本経営史研究所主催第1回優秀会社史賞特別賞を受賞している]
稲畑産業(株) 化学工業 『稲畑八十八年史 : 1890~1978』(1978.01) 京都生まれの稲畑勝太郎(いなばた・かつたろう、1862-1949)は師範学校からフランスへ留学、8年間染色を学び1885年(明18)帰国し京都府に奉職。渋沢栄一発起の京都織物へ入社し染色技師長として重責を果たすが、1890年(明23)退職し京都に稲畑染料店を設立。フランスから材料と機械を輸入、東京・天津にも支店を設け業容を拡大し、1943年(昭18)稲畑産業と社名変更。勝太郎は1926年(昭1)渋沢栄一が相談役を務めた日本染料製造の社長に就任。日本染料製造が住友化学工業と合併後、稲畑産業は住友化学工業の染料・化学・医薬品の特約販売店となる。88年史は写真・図版を数多く取り入れ「見る社史」として編集。
王子油化合成紙(株) 化学工業 『王子油化合成紙30年史』(2000.03) 1968年(昭43)政府は森林資源確保を目的に合成紙産業の育成努力を勧告し、紙パルプ・繊維・石油化学業界等に合成紙ブームが起きる。政府勧告よりも前から合成紙開発を進めていた三菱油化樹脂研究所は、勧告に刺激を受けた王子製紙との提携を進め、1969年(昭44)王子油化合成紙研究所が誕生。開発と事業化を進め1970年(昭45)王子油化合成紙(株)を設立。工場を稼働させショッピングバッグやステッカー、地図など水に強い合成紙の特徴を活かした製品を次々生産し、海外にも進出する。30年史は本文用紙に自社製合成紙を使用し、写真・エピソードを随所に取り入れ沿革をまとめている。[2001(平13)ユポ・コーポレーションと社名変更]
大阪曹達(株) 化学工業 『大曹70年のあゆみ』(1986.05) 明治末期に関東州の豊富な塩を原料としたかせいソーダ製造を政府が計画し、水銀法電解ソーダの工業化が図られる。関西財界重鎮の中橋徳五郎(なかはし・とくごろう、1864-1934)を委員長に、かせいソーダの製造販売のため1915年(大4)大阪曹達が創立。第一次大戦中でソーダ類の輸入が不足、ソーダを使用する各種化学工業の急激な興隆もあり事業が発展する。第二次大戦後は水銀公害規制に対応し製法をイオン交換膜法へ転換、有機化学分野にも進出する。70年史は写真を多用し、第1編に近年の躍進、第2編に創業からの回顧、第3編に資料という構成。未完の50年史草稿を土台にしている。[1988年(昭63)ダイソーに社名変更]
花王(株) 化学工業 『花王史100年 : 1890-1990年』(1993.03)
花王(株) 化学工業 『花王史100年 : 1890-1990年. 年表/資料』(1993.03) 『花王史100年 : 1890-1990年』(社史ID:03100)の年表/資料
花王(株) 化学工業 『花王史年表 : 1990-2000年』(2000.11)
花王(株) 化学工業 『暮らしを拓く : 花王を築いた商品たち : 社内報「花王ファミリー」連載』(2002.03)
花王(株) 化学工業 『花王120年』(2012.05)
花王(株) 化学工業 『花王120年. 資料編』(2012.05) 『花王120年』(社史ID:03140)の資料編
花王石鹸(株) 化学工業 『花王石鹸五十年史』(1940.10) 岐阜出身の初代長瀬富郎(ながせ・とみろう、1863-1911)は1887年(明20)東京馬喰町に洋小間物の長瀬商店を開業、普及し始めた舶来石鹸を扱う。国産品優良石鹸の創製を決意し、石鹸職人や薬剤師らの協力を得て1890年(明23)「花王石鹸」を発売。1911年(明44)合資会社へ、1925年(大14)花王石鹸株式会社長瀬商会となる。油脂製品の多角製造をはかり1935年(昭10)吾嬬工場を独立させ大日本油脂を設立、化学工業分野へスタートを切る。石鹸発売から50年記念に編纂した社史は研究者の執筆で、欧米石鹸業発達史を序編とし、本編の日本石鹸業発達史の中に花王石鹸発達史を位置付けている。巻末索引付。[1946年(昭21)花王に改称、後に変遷を経て1985年(昭60)再び花王に改称]
花王石鹸(株) 化学工業 『花王石鹸七十年史』(1960.11)
花王石鹸(株) 化学工業 『花王石鹸八十年史』(1971.01)
花王石鹸(株) 化学工業 『日本清浄文化史』(1971.01)
花王石鹸(株) 化学工業 『四〇〇〇人の軌跡 : 花王石鹸90周年記念出版』(1980.10)
花王石鹸(株) 化学工業 『年表・花王90年のあゆみ』(1980.10)
花王石鹸(株) 化学工業 『花王広告史』(1989.04)
片倉チッカリン(株) 化学工業 『八十年史』(2000.10) 大分の蚕種製造家古椎文夫と片倉合名会社大分製糸所長の片倉耕介(片倉合名社長2代片倉兼太郎の三男)は、1920年(大9)桑園用専用肥料製造販売会社の日支肥料を創業。しかし第一次大戦後恐慌の影響を受け、創業後わずか3年で会社は解散寸前となる。片倉合名会社の経営参加によって会社は存続し、1924年(大13)片倉米穀肥料と改称。養蚕業の発展に伴い事業を拡張するが、戦時下の統制で1943年(昭18)片倉化学工業と改称。戦後八洲産業、片倉肥料と改称の後、1957年(昭32)日本チッカリン肥料、昭和肥料工業との合併により商号を片倉チッカリンとする。80年史は既刊の40年史・60年史を踏まえ、1980年(昭55)以降の事業展開を詳述している。
鐘淵化学工業(株) 化学工業 『化学を超えて : カネカ40年の技術水脈』(1990.10)
関西ペイント(株) 化学工業 『明日を彩る : 関西ペイント六十年のあゆみ』(1979.05)
呉羽化学工業(株) 化学工業 『呉羽化学五十年史』(1995.04) 大規模な人絹会社設立を計画した昭和肥料の高橋保(たかはし・たもつ、1882-1972)と森矗昶(もり・のぶてる、1884-1941)は、1934年(昭9)昭和人絹(株)を設立、福島に工場を建設し翌年操業開始。同社は1939年(昭14)呉羽紡績と合併し、その人絹部門となる。戦時下1944年(昭19)設備を転用した化学製品製造の呉羽化学工業(株)として独立。戦後は石油化学工業にも進出し、高付加価値事業を推進する。50年史は研究者の執筆で、昭和人絹の設立から年代順の5章に沿革を記述。技術開発の特徴を中心とした現状を序章に述べている。[2005年(平17)(株)クレハに社名変更][人絹(人造絹糸)=レーヨン]
山陽色素(株) 化学工業 『虹のあゆみ : 山陽色素六十年史』(1992.05)
四国化成工業(株) 化学工業 『四国化成五十年史』(1997.10) 香川県丸亀の技術者多津白年(あきとし)と横山良一は、第二次大戦後の混乱期に事業を興すに当たり衣食住のうち「衣」に着目。化学繊維のうちビスコースレーヨンは入手の容易な硫黄と木炭から生成される二硫化炭素が原料であること、四国・中国地方にはレーヨン工場が数多くあり需要先が確保されていることから、新製法による二硫化炭素の工業化を図り、地元有力者の出資を得て1947年(昭22)四国化成工業を創立。1949年(昭24)には渋沢栄一に縁のある東邦レーヨンの出資を得る。人材を結集し時機を得た経営で事業を多角化し発展する。50年史はジャーナリストの執筆で会社の歩みを読みやすくまとめている。索引付。
(株)資生堂 化学工業 『資生堂社史 : 資生堂と銀座のあゆみ八十五年』(1957.11) 千葉出身で薬学を修めた福原有信(ふくはら・ありのぶ、1848-1924)は、海軍薬剤監を辞して1872年(明5)三田田町で薬局開業、火事のため銀座出雲町に移る。一方友人らと三精社を興し、西洋薬舗会社資生堂を設立、個人の薬舗にも資生堂を号した。出雲町の資生堂薬局二階に回陽医院を設けるも医薬分業を実践し、製薬事業に尽力。1887年(明20)日本初の煉歯磨、1897年(明30)化粧品の製造販売にも乗り出す。欧米に学んだ三男福原信三(ふくはら・しんぞう、1883-1948)が化粧品を充実させ、1921年(大10)合資会社資生堂となる。1927年(昭2)株式会社に改組し、戦禍を乗り越え業容拡大する。85年史は銀座と共に歩んだ資生堂の変遷を、製品・広告・風俗など多くの写真図版や寄稿文を取り入れ多面的に描いている。
(株)資生堂 化学工業 『資生堂百年史』(1972.06) 1872年(明5)東京銀座に洋薬薬局として創業し、1897年(明30)から化粧品製造販売を始めた資生堂は、福原信三(ふくはら・しんぞう、1883-1948)社長の元で1915年(大4)経営の主体を薬品から化粧品に転換。合資会社を経て1927年(昭2)株式会社に改組、販売組織を整え内外に発展する。戦後は経営近代化を進め、常に最高の品質を追求するとともに消費者との共存共栄を目指している。85年史に続くこの100年史は、巻頭に5項目の経営理念と西欧文化吸収の窓口である銀座の写真を配置。本文は沿革を10章にまとめ、製品や広告宣伝物のカラー写真をふんだんに取り入れた編集。巻末資料も各項目を視覚的にわかりやすく表現している。
(株)資生堂 化学工業 『資生堂宣伝史. 1』(1979.07) 化粧品制作に独特の美を追求してきた資生堂の、宣伝部門の発展史を3冊にまとめたもの。1「歴史」では1872年(明5)の創業から1960年(昭35)までを時代順に追い、意匠部が発足した1916年(大5)以降を詳細に記述。宣伝表現の基本に使用した「女性像」と「唐草」は特に章を立てている。巻末に人名索引付。2「現代」ではキャンペイン方式の宣伝を始めた1961年(昭36)以降の、新聞雑誌広告や製品デザイン等の制作物写真を掲載。3年ごとにまとめた略史を間に挟む。担当した歴代宣伝部員28名の寄稿と、コミュニケーションの研究者4名の座談会も載せ、巻末に制作者や催事等の一覧付。3「花椿抄」は、1924年(大13)に『資生堂月報』として創刊され『資生堂グラフ』を経て『花椿』と改称したPR誌からの抜粋記事。500冊以上の中から約120の寄稿を選び、挿絵やグラビア写真と共に年代順に再録している。既刊の85年史と100年史に対し、この宣伝史は部門史の位置づけ。
(株)資生堂 化学工業 『資生堂宣伝史. 2』(1979.07) 『資生堂宣伝史. 1』(社史ID:03310)の2巻
(株)資生堂 化学工業 『資生堂宣伝史. 3』(1979.07) 『資生堂宣伝史. 1』(社史ID:03310)の3巻
信越化学工業(株) 化学工業 『未来への軌跡 : 昭和とともに60年』(1986.10)
住友化学工業(株) 化学工業 『住友化学工業株式会社史』(1981.10) 住友家の別子銅山の銅精錬の際発生する有毒ガスを転じて、有益な過燐酸肥料を製造するため、1913年新居浜に住友肥料製造所が設置される。1915年工場が完成し肥料の出荷を始め、1934年住友化学工業(株)となる。社史は前史として住友家の創業から始まり、肥料工業から総合化学工業へ、戦後の石油化学工業への展開が記述されている。1944年に合併した日本染料製造(株)の沿革も含む。社名・製品・社内事項の索引付。
住友ベークライト(株) 化学工業 『住友ベークライト社史』(1986.12)
曹達晒粉同業会 化学工業 『日本曹達工業史』(1931.02)
曽田香料(株) 化学工業 『香料とともに六十年』(1967) 新潟出身の曽田政治(1890-?)は1905年(明38)上京して石鹸商に奉公。香料部で働く傍ら英語学校で勉強し、輸入事務に携わる。1915年(大4)独立して香料商の曽田政治商店を開業。1931年(昭6)には合成香料製造の代々木香料製造所を設立。台湾に出張所を開設し、札幌・青森に工場を建設して国産天然香料の開発を進め、1941年(昭16)曽田香料(株)となる。戦中戦後の混乱期を乗り越え、天然香料栽培の農場と一般香料・食品香料等の製造工場を復興する。60年史は創業者の伝記の形で会社の沿革を記述している。
大日本インキ化学工業 (株) 化学工業 『Color and comfort by chemistry : DIC創業100周年記念写真集』(2008.02)
大日本人造肥料(株) 化学工業 『創業三十年記念誌』(1917.04) 1879年工部大学を卒業した高峰譲吉は農商務省から英国へ留学、化学製造所で過燐酸肥料の製造を見学する。1884年米国ニューオーリンズ万博にて過燐酸石灰と燐鉱石を購入、持ち帰る。食料生産増加のため、化学肥料の国内製造業創業を目指した渋沢栄一と益田孝は高峰と協議を重ね、1887年東京人造肥料会社を設立。1910年大阪硫曹(株)と合併し大日本人造肥料(株)となる。創業30年を記念して出された社史は、栄一が祝辞を寄せ書を揮毫。過燐酸の発達史・成分・種類・効用・使用法といった製品の宣伝普及のために多くの頁を割く。
大日本人造肥料(株) 化学工業 『大日本人造肥料株式会社五十年史』(1936.11) 化学肥料の有用性を学んだ高峰譲吉は農商務省に謀って全国で化学肥料を試用し良好な結果を得る。渋沢栄一、益田孝と協議を重ね、渋沢喜作、大倉喜八郎、浅野総一郎ほかの協力を得て、1887年東京人造肥料会社を設立。1910年大阪硫曹(株)と合併し大日本人造肥料(株)となる。50年史は第1編沿革、第2編現況からなり、巻末に図表付。合併した多くの会社の略史も含む。
大日本セルロイド(株) 化学工業 『大日本セルロイド株式会社史』(1952.09) 19世紀後半に欧米で印刷のローラーやビリヤード球の原料等として発明された合成樹脂セルロイドは、1877年(明10)日本に初輸入され加工法の研究が始まる。原料の一つである樟脳は日清戦争後日本領となった台湾が主原産国で、多数の事業者が生産開始した結果樟脳の不足が生じた。合同によりセルロイド業界を統制する意見が盛んとなり、1919年(大8)堺セルロイドの専務森田茂吉を中心に日本セルロイド人造絹糸、大阪繊維工業、東京セルロイド、三国セルロイド、能登屋セルロイド、東洋セルロイド、十河セルロイド8社の合併により大日本セルロイドが創立。その後写真フィルムの研究にも進出し、1934年(昭9)富士写真フイルムを設立。創立30周年記念に編纂された社史は時代順に七章からなり、序章に日本のセルロイド業界の歴史を綴る。本文中に多くの製品や工場写真を含む。[1966年(昭41)ダイセル、1979年(昭54)ダイセル化学工業と社名変更。渋沢栄一は堺セルロイドの発起人。]
大日本塗料(株) 化学工業 『大日本塗料の四十年』(1969.10)
電気化学工業(株) 化学工業 『電気化学工業株式会社三十五年史』(1952.03)
電気化学工業(株) 化学工業 『45年の歩み』(1960.11) 窒素肥料のほとんどを輸入していたわが国では、第1次大戦後の好況期に多くの化学工業会社が起こる。カーバイド・石灰窒素などの化学工業品の製造・販売を目的に、1915年三井系有力者により電気化学工業(株)が設立される。発起人渋沢栄一、初代会長は馬越恭平。酢酸工業にも進出し、渋沢栄一が相談役を務めた日本醋酸製造(株)を1941年に吸収合併。45年史は現況、製造、沿革、当社発展のあと、という構成。
東亜ペイント(株) 化学工業 『東亜ペイント45年史』(1960.11)
東燃石油化学(株) 化学工業 『東燃石油化学十五年 : 1960~1975』(1977.09)
東洋インキ製造(株) 化学工業 『東洋インキ80年史』(1988.01) 絵具店勤務の小林鎌太郎(1875-1938)は、1896年(明29)独立して小林インキ店を東京に開業。大蔵省印刷局の横田源太郎(1874-1967)の提案でドイツ製機械を導入し、横田と共に1907年(明40)東洋インキ製造を創立。翌年業界初のインキ見本帳を作成し、印刷会社に配布。生産設備を拡充し製品開発に取り組み、海外へも販路を拡大。戦後は塗料・樹脂事業や接着剤等の新事業へ業容を拡大し発展する。80年史は編年体の通史、事業ごとの部門史、資料、用語辞典・色名の4部からなる。色名には200色近い色見本付。『印刷インキの歩み』(1967年刊)と題する60年史あり。
東洋曹達工業(株) 化学工業 『社史四十年東洋曹達』(1978.04) 石鹸・硝子・陶器などの原料として古来利用されてきたソーダ(炭酸ナトリウム)は、18世紀の産業革命以来工業的な大量生産が図られてきた。日本曹達工業の技師長であった岩瀬徳三郎(いわせ・とくさぶろう、1887-1971)は理想的なアンモニア法ソーダ工場の建設を企図し、共に日本曹達工業を退社した33名の強力な支援のもと1935年(昭10)山口県に東洋曹達工業を設立。ソーダ工業を出発点に総合化学企業へと発展する。40年史は世界のソーダ工業の歴史から書き起こした沿革編、現況と基礎資料からなる部門編、1975年(昭50)に合併した鉄興社編からなる。[1987年(昭62)東ソーに社名変更。ウェブサイトで40年史全文を公開している。]
ニチバン(株) 化学工業 『ニチバン80年史』(1999.09) 1895年(明28)歌橋又三郎(1863-1937)は東京日本橋に薬局歌橋輔仁堂を創立し、チェコのF.J.ピック博士(1834-1909)発明のピック氏硬膏製造法を完成させた。長男の歌橋憲一(うたはし・けんいち、1889-1977)はピック氏硬膏の一貫生産を目指し、輔仁堂から分立して1918年(大7)歌橋製薬所を創立、絆創膏製造を開始する。1934年(昭9)株式会社に改組。1944年(昭19)日絆工業、1948年(昭23)日絆薬品工業と改称。セロテープ(登録商標)を進駐軍へ納入し業績を伸ばす。1961年(昭36)ニチバンと改称、企業体質改善を図り新製品開発を進める。80年史は製品史に重点を置いた構成で、序章でピック氏軟膏を扱い、4章までは既刊の50年史を元に編集。5~8章で最近30年を詳述、巻末に社員全員の顔写真を6頁にわたり掲載している。
日産化学工業(株) 化学工業 『八十年史』(1969.05) 1887年創立の東京人造肥料会社(後大日本人造肥料(株))は1923年、関東酸曹、日本化学肥料と合併。1937年日産グループに参加し、日産化学工業(株)となる。1943年日本鉱業(株)と合併するが2年で分離、1945年日本油脂と合併して再び日産化学工業(株)となる。戦後は経営多角化し、石油化学工業へも進出。80年史は第1部現況、第2部通史、第3部部門史、第4部資料からなる。産業史の意味合いも兼ね、執筆は(社)化学経済研究所に委託。
日産化学工業(株) 化学工業 『百二十年史』(2007.05) 1887(明治20)年、渋沢栄一、高峰譲吉(たかみね・じょうきち、1854-1922)らにより、日本初の人造肥料(化学肥料)製造会社として東京人造肥料会社の社名で創業。1893(明治26)年、株式会社となる。1910(明治43)年、大日本人造肥料株式会社に社名変更。1937(昭和12)年には日本産業株式会社[日産コンツェルン]傘下となり、日産化学工業株式会社に社名変更。同グループ内での吸収・再編を経て、1945(昭和20)年に改めて日産化学工業株式会社として発足。本社史は、創業から120周年を記念して制作されたもの。主に、創業からの歴史を振り返る「経営編」、主要製品について記した「製品編」および「資料編」の3編で構成。題字は、創業者渋沢栄一の曾孫である渋沢雅英が揮毫している。
日本カーバイド工業(株) 化学工業 『日本カーバイド工業株式会社二十年史』(1958.02)
日本化成(株) 化学工業 『50年史』(1987.11)
日本酸素(株) 化学工業 『日本酸素七十五年史』(1986.03) 山口武彦(やまぐち・たけひこ、1869-1962)が1906年(明39)創業した山武商会は、海外から酸素溶接切断機などの工作機械を輸入していた。切断機に使用するボンベ入り酸素も一緒に輸入していたが、酸素使用後は借り物の空ボンベを輸入元に返送せねばならず、運賃がかさみ問題があった。山口は採算面だけでなく新規事業として将来性が見込める酸素製造の国産化を模索し、1910年(明43)日本酸素合資会社を設立。1918年(大7)株式会社に改組。第二次大戦後は液化酸素事業、プラント事業、冷凍食品事業等にも進出し発展する。75年史は創立からの歩みを7章に分け、50年史以降の25年を特に詳述。[2004年(平16)大陽東洋酸素(株)と合併し、大陽日酸(株)に社名変更]
日本ゼオン(株) 化学工業 『日本ゼオン二十年史』(1972.11)
日本染料製造(株) 化学工業 『日染廿年史』(1936.12) 第一次大戦によりドイツから輸入していた必需品が高騰し、国内製造が求められる。染料製造を企図した稲畑勝太郎(いなばた・かつたろう、1862-1949)らの働きかけで1915年(大4)染料医薬製造奨励法案が成立。政府は直ちに発起人会を招集し、1916年(大5)日本染料製造が設立された(渋沢栄一は相談役)。戦後不況を国庫補助により乗り越え、海外留学生を送り技術を習得、新製造法の開発に努め躍進する。20年史は世界の染料工業の歴史や明治以降の日本への技術移入の経緯にも触れながら、会社の沿革を簡潔にまとめている。[1944年(昭19)住友化学工業に合併]
日本曹達(株) 化学工業 『日本曹達70年史』(1992.02) 第一次大戦終結後欧州からの化学製品輸入が途絶え、化学工業勃興の機運が高まる。京都大学で学んだ中野友礼(なかの・とものり、1887-1965)は中野式隔膜電解法を完成、カセイソーダなどの化学製品製造を目的に1920年(大9)日本曹達を設立。新潟に工場を建設、積極経営で企業買収を行い日曹コンツェルンを形成。渋沢同族(株)が株主であった大島製鋼所も1937年(昭12)に子会社の日曹製鋼が吸収している。第二次大戦後財閥解体の指定を受け、1949年(昭24)新たな日本曹達として発足する。70年史は沿革と部門史、資料からなる。
日本ペイント(株) 化学工業 『日本ペイント株式会社五十年史』(1949.12) 東京開成学校でワグネルに化学を学んだ茂木重次郎(もてき・じゅうじろう、1859-1932)は顔料とペイント製造の研究を進め、1881年(明14)東京に光明社を設立し塗料工業を始める。業績を伸ばし1895年(明28)合資会社に改組、次いで1898年(明31)には日本ペイント製造(株)と改組改称する。大阪にも工場を建設し、第一次大戦を機に海外に販路を広げる。1927年(昭2)日本ペイント(株)と改称し、1931年(昭6)本社を大阪に移して業容を拡大。戦災を受けるが戦後復興を果たし、1948年(昭23)には増資をして経営基盤を強化する。50年史は1-8章が光明社創業からの沿革、9章が社是と経営の特色、10章が資料という構成で、会社のあゆみをコンパクトにまとめている。
日本ペイント(株) 化学工業 『日本ペイント百年史』(1982.12)
日本油脂(株) 化学工業 『日本油脂50年史』(1988.05) 実業家鮎川義介(あいかわ・よしすけ、1880-1967)は日立鉱山を擁する久原鉱業を1928年(昭3)引き受け、本社機構を持株会社とし日本産業(株)と改称、現業部門を日本鉱業(株)とした。鮎川は化学工業進出を目論み、1937年(昭12)(旧)日本油脂(株)を設立。1945年(昭20)日本油脂は生産強化のため日本鉱業(株)化学部門を合併し、社名を日産化学工業(株)と改称。同社は終戦後1949年(昭24)占領政策により分割され、油脂、塗料、火薬、溶接棒部門が(新)日本油脂(株)として発足。昭和40年代には石油化学部門にも進出し、総合化学メーカーとして業容を拡大する。50年史は巻頭に現況を写真で紹介、続く沿革編では既刊の30年史を要約し、以降の歩みを詳述。次の部門編は油化、食品油脂、塗料、化薬、石化、溶接、家庭品の各事業部ごとに沿革と商品展開を記載。巻末に資料編付。[2007年(平19)日油(株)と社名変更]
長谷川香料(株) 化学工業 『長谷川香料八十年史』(1985.05) 薬種貿易の松沢商店で香料を扱っていた長谷川藤太郎(1877-1947)は、1903年(明36)独立して日本橋に香料店の長谷川藤太郎商店を創業。石鹸や化粧品、バニラ入り食品等が広まるにつれ香料の需要も伸びる。1948年(昭23)株式会社に改組。経営近代化を図り、1961年(昭36)香料製造販売の長谷川香料(株)を設立し業務一切を引継ぐ。川崎に続き深谷にも工場建設し成長する。80年史は1・2章に「古代の香料」「文明開化と香料」を置き、3章から13章に創業からの歩みを年代順に記述。各頁欄外に該当年の年表を記載している。
日立化成工業(株) 化学工業 『日立化成工業社史』(1982.12)
富士写真フイルム(株) 化学工業 『創業25年の歩み』(1960.01) 1919年(大8)発足の大日本セルロイドでは、セルロイドの新しい需要先として写真フィルム・映画用フィルムの将来性に着目。その国産化を社会的責務であると考え、写真乳剤の研究のため写真用乾板の工業化を進めていた東洋乾板と提携。セルロイドとは製造販売共に異なる知識を要するので別会社を計画、政府の助成金も受け1934年(昭9)富士写真フイルムが誕生する。東洋乾板を統合し、写真フィルムをフィルムベースから一貫製造するとともに、乾板・印画紙の製造も行なう。戦後は不燃性ベースへ転換し、総合写真工業会社として発展する。25年史は現況・沿革・資料の3編からなり、沿革編では準備時代から創立25周年までを7時代に分け、設備拡張・技術革新・販売活動・労務事業等を記載。各頁掲載の写真はすべて自社のフィルム・印画紙・写真薬品による。[2006年(平18)富士フイルムホールディングスの事業会社の一つである富士フイルムとなる]
富士写真フイルム(株) 化学工業 『富士フイルム50年のあゆみ』(1984.10)
(株)マンダム 化学工業 『マンダム五十年史』(1978.04)
三井石油化学工業(株) 化学工業 『三井石油化学工業30年史 : 1955-1985』(1988.09) 石油化学工業は、第二次大戦中米国で著しく発展したが、戦後日本でも積極的に育成策がとられる。三井グループと興亜石油は岩国旧陸軍燃料廠跡地の払下を受け、1955年三井石油化学工業(株)設立。1958年操業開始し高度経済成長とともに発展する。30年史は1978年刊の20年史を要約した沿革Iと、以降の10年間をまとめた沿革II、部門編、資料編からなる。[1997年三井東圧化学(株)と合併し三井化学(株)となる]
三井東圧化学(株) 化学工業 『三井東圧化学社史』(1994.03) 1912年三井鉱山がコークス炉に含まれるアンモニアを回収し硫安を生産したのが始まり。三井鉱山は三井銀行・三井物産と共に三井コンツェルンを形成。1933年に東洋高圧工業(株)を設立、1941年には三井化学工業(株)を設立してそれぞれ幅広い事業展開をする。1968年に両者は合併し三井東圧化学(株)が誕生。事業展開に伴い多くの会社を分離、吸収して成長してきた。[1997年三井石油化学工業(株)と合併し三井化学(株)となる]
三菱化成工業(株) 化学工業 『三菱化成社史』(1981.06) 三菱合資の岩崎小弥太は大正期に化学工業への進出を計画、海外の動向を調査し準備を進める。三菱鉱業から施設を譲り受け1934年日本タール工業(株)設立。北九州黒崎に石炭化学工場を建設し染料・肥料・コークスを生産。1936年日本化成工業(株)と改称、1944年旭硝子を合併し三菱化成工業(株)となる。戦後財閥解体により日本化成、新光レイヨン(現・三菱レイヨン)、旭硝子に分割。日本化成は1952年三菱化成工業(株)に社名復帰。[1994年三菱油化と合併し三菱化学(株)となる]
三菱油化(株) 化学工業 『三菱油化三十年史』(1988.03) 酒田出身の池田亀三郎は1909年東京帝大卒業後三菱合資に入社、石炭化学工業の創設をはかり1934年日本タール工業(後の三菱化成工業)設立。戦後基幹素材産業として発展が期待された石油化学製品を国産化するため、三菱グループとシェルが提携し1956年三菱油化(株)創立、池田が初代社長。30年史は創業前史としてわが国化学工業の成立と三菱の関わりを述べ、本編で創業からの躍進と激動の歩みを記す。[1994年三菱化成工業と合併し三菱化学(株)となる]
ミヨシ油脂(株) 化学工業 『ミヨシ油脂株式会社八十年史』(2002.12)
ライオン(株) 化学工業 『いつも暮らしの中にLion : ライオン100年史』(1992.10) 埼玉の酒造業家に生まれた初代小林富次郎(こばやし・とみじろう、1852-1910)は、上京し石鹸製造業に携わる。1891年(明24)東京神田に石鹸とマッチ原料取次の小林富次郎商店を開設。キリスト教徒の富次郎は知人牧師の「ライオンなら牙も丈夫だ」との意見で、1896年(明29)「ライオン歯磨」を商標登録。1918年(大7)二代目富次郎(1872-1958)は歯磨事業に特化した小林商店を設立。1949年(昭24)ライオン歯磨に社名変更し、医薬品や食品にも事業多角化。また石鹸事業は1919年(大8)にライオン石鹸として分離独立、後にライオン油脂に改称。1980年(昭55)に両社が合併し、新会社ライオンが発足する。100年史はライオン歯磨、ライオン油脂、合併後のライオンの三本の流れを追っている。商品・ブランドや口腔衛生活動などテーマ別に12種類の年表を掲載。
(特)理化学研究所 化学工業 『理研の研究活動』(1988.10) 1958年(昭33)設立された特殊法人理化学研究所の研究活動について、研究室ごとに発足の経緯、目的や方針、研究内容、研究成果、将来展望等をまとめたもの。対象は埼玉県和光市の本所にある41研究室と2研究グループ、茨城県つくば市のライフサイエンス筑波研究センターの6研究室等。別冊で理化学研究所発足からの沿革をまとめた『特殊法人理研30年』を出版している。[2003年(平15)独立行政法人となる]
(特)理化学研究所 化学工業 『特殊法人理研30年』(1988.10) 高峰譲吉(たかみね・じょうきち、1854-1922)は国民科学研究所設立案を提唱し渋沢栄一らが賛同、この案を継ぎ1917年(大6)国庫補助を得て(財)理化学研究所が設立。多数の優れた研究者が従事し成果を上げ、また同研究所の発明品を事業化する多くの会社は理研コンツェルンを形成した。第二次大戦の戦災で設備の大半を失い、終戦後1948年(昭23)(株)科学研究所が設立され財団の事業を継承。1958年(昭33)新技術開発という国家的事業遂行のため特殊法人理化学研究所が設立され、科学研究所の事業を継承した。30年史は第1章に財団法人と株式会社時代の沿革を置き、第2章に特殊法人発足からのあゆみを記載。巻末に資料付。別冊で特殊法人30年間の研究を研究室ごとにまとめた『理研の研究活動』を出版。[2003年(平15)独立行政法人となる]
(国研)理化学研究所 化学工業 『理化学研究所百年史. 第1編 歴史と精神』(2018.03)
(国研)理化学研究所 化学工業 『理化学研究所百年史. 第2編 研究と成果』(2018.03)
(国研)理化学研究所 化学工業 『理化学研究所百年史. 第3編 資料』(2018.03)
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