収録社史一覧

業種"サービス業" 社史一覧 全104件中100件 1件〜100件目を表示

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会社名 業種 社史タイトル(出版年) 会社沿革と社史メモ
(株)アウルホールディングス サービス業 『10年のあゆみ : 株式会社アウルホールディングス : これからも心地よい生活環境をカタチに。』([2013])
(株)郁文堂 サービス業 『株式会社郁文堂創業八十年記念誌』(1979.10)
(株)岩波書店 サービス業 『岩波書店八十年』(1996.12)
(株)江木写真店 サービス業 『江木五十嵐写真店百年の歩み』(1985.02) 福山藩士の学者の家に育った江木保男(えぎ・やすお、1856-1898)は写真術に注目し、弟の松四郎をアメリカへ留学させ技術を習得、1884年(明17)東京神田に江木写真店を創設。1889年(明22)には新橋に支店を開設、華族や政財界人で繁盛する。1943年(昭18)に軍部の圧力で解散したが、直後の1944年(昭19)、かつて江木写真店の技術者であり経営にも参加していた五十嵐与七(1885-1967)らが五十嵐写真店を設立し、伝統を継承。1963年(昭38)株式会社となり、都内のホテル、結婚式場などで写真店を展開する。100年史は両社の沿革を通して扱い、技術の変化や顧客の著名人のエピソードを随筆風に記述。また渋沢栄一を含む多くの内外要人の写真、五十嵐与七への追悼文、五十嵐与七の遺稿などを収録し、栄一とオリエンタル写真工業との関連にも触れている。
(株)歌舞伎座 サービス業 『歌舞伎座百年史. 本文篇 上巻』(1993.07)
(株)歌舞伎座 サービス業 『歌舞伎座百年史. 本文篇 下巻』(1998.11) 『歌舞伎座百年史. 本文篇 上巻』(社史ID:14370)の下巻
(株)歌舞伎座 サービス業 『歌舞伎座百年史. 資料篇』(1995.04) 『歌舞伎座百年史. 本文篇 上巻』(社史ID:14370)の資料編
(社)共同通信社 サービス業 『共同通信社三十五年』(1981.10)
(社)共同通信社 サービス業 『回想共同通信社50年』(1996.06)
(社)共同通信社 サービス業 『共同通信社50年史』(1996.06)
(社)共同通信社 サービス業 『共同通信社年表』(1996.06) 『共同通信社50年史』(社史ID:14430)の年表
(社)共同通信社 サービス業 『共同通信社60年史 : 1995-2005』(2007.04)
(株)京都ホテル サービス業 『京都ホテル100年ものがたり : 一歩一歩に感謝をこめて : 創業100周年』(1988.09) 明治初期東京遷都により京都は地盤沈下したが、産業振興の掛け声のもとに博覧会や勧業場誘致等により、外国人の入洛が増加。神戸の料亭経営者前田又吉は、政財界の要請に応えて1888年常盤ホテル開業。勧業場跡地払下を受け、渋沢栄一らが起こした日本土木会社が工事を請け負い1890年本格的洋風ホテル完成。1894年京都ホテルと改名。終戦後は京都の国際観光都市化と共に業績も伸びる。百年史は編年体の記述部分の他に、グラビア・対談・メッセージ集・新聞広告等数多く取り入れた構成。
極東警備保障(株) サービス業 『長い夜明け』(1984.05)
(株)講談社 サービス業 『講談社の80年 : 1909~1989』(1990.07) 東京帝国大学法科主席書記の野間清治(のま・せいじ、1878-1938)は、1909年(明42)弁論部演説会の速記をとり、弁論雑誌出版を志す。大日本雄弁会を創業し弁論雑誌「雄弁」を始め「面白くて、為になる」編集方針で雑誌を次々創刊、1925年(大14)大日本雄弁会講談社と改称。1938年(昭13)には株式会社に改組、1958年(昭33)講談社となり書籍出版でも目覚ましく成長する。80年史は創業からの歩みを編年体で記述し、刊行した雑誌、書籍、当時の主要な出版界の事項等を写真を豊富に使用して掲載している。巻頭に「日本出版印刷の歴史」を研究者が執筆。
(株)神戸新聞社 サービス業 『神戸新聞五十五年史』(1953.07)
(株)後楽園スタヂアム サービス業 『後楽園スタヂアム50年史』(1990.04)
笹気出版印刷(株) サービス業 『妝匣の本質 : ひたむきに生きる、刷匠たちの念い』(2012.05)
(株)ジェイアール西日本メンテック サービス業 『40年のあゆみ : West Japan Railway Maintec Co., Ltd 1958-1998』(1999.02)
(株)時事通信社 サービス業 『建業弐十年』(1965.11) 戦前の国家代表通信社であった同盟通信社が解散し、新聞・放送に対する通信事業は共同通信社として分離、個人に対する通信事業が時事通信社として1945年(昭20)創立された。時事通信では当初、速報通信、出版、写真通信に注力し、1946年(昭21)からUP、ロイター、AFP各通信社と順次通信契約を締結。1950年台に最初の海外特派員派遣、「官庁速報」創刊、海外向け英文放送と超短波ボイス同報開始、ホーガン式ファクス同報開始、1960年台には旧西独DMT通信社とニュース交換契約発効、マスメディア・サービス開始、東京・ニューヨーク・ロンドンに専用電信回線開通、と事業拡大している。20年史は5章までが全社の沿革、6-14章が事業ごとの歩み。前身の一つで渋沢栄一が関わった国際通信社にも触れている。人名索引付。先行社史は『建業十有五年』(1960年刊)がある。
(株)時事通信社 サービス業 『時事通信社50年史』(1995.11)
(株)実業之日本社 サービス業 『『実業之日本』の六十年と創立者増田義一』([1957])
(株)実業之日本社 サービス業 『実業之日本社七十年史』(1967.06)
(株)実業之日本社 サービス業 『実業之日本社百年史』(1997.12) 1895(明治28)年、東京専門学校出身の光岡威一郎が帝国実業の発達振興を図るために大日本実業学会を創立。1897年に雑誌「実業之日本」を創刊。その後光岡は健康を害し、発行権と経営権を同窓の増田義一に譲り、増田は1900年実業之日本社を設立。「実業之日本」誌は経済雑誌として成長していく。別冊「百年図書総目録」には、書籍、ムック、コミックス、ビデオ、教育関係図書等の出版物を刊行年順に記載、書名・著訳者名索引つき。
(株)実業之日本社 サービス業 『実業之日本社百年図書総目録』(1997.12) 『実業之日本社百年史』(社史ID:14570)の別冊
(株)ジャパン・タイムズ サービス業 『The Japan Times ものがたり : 文久元年(1861)から現代まで』(1966.07) 日本初の英字紙は1861年(文久1)英国人により創刊されたが、日本人による初の英字紙は1897年(明30)創刊の日刊英字新聞『ジャパンタイムズ』。主筆は伊藤博文首相の秘書官であった鳥取出身の頭本元貞(ずもと・もとさだ、1863-1943)で、日本郵船を退職した同郷の山田季治(やまだ・すえじ、1848-1916)が社長として経営を支えた。英語界の俊秀を集め創刊1ヶ月後にはロイター電報と契約し、世界ニュースを掲載。紙名は The Japan Times and Mail → The Japan Times and Advertiser → Nippon Times と変遷し、1956年(昭31)から再び The Japan Times となる。社史はコンパクトながら日本の英字新聞の歴史にも触れ、巻末に英文社史を収録。
(株)主婦の友社 サービス業 『主婦の友社の五十年』(1967.02) 大分出身の石川武美(いしかわ・たけよし、1887-1961)は東京で雑誌編集に携わり、第一次大戦による景気変動の中1916年(大5)東京家政研究会を興す。翌年中流家庭の主婦の生活を焦点とした雑誌『主婦之友』を創刊、1921年(大10)主婦之友社と改称。第二次大戦中も日本の家庭と主婦を守るという編集姿勢を貫き、戦後は雑誌を中心とした関連事業にも歩を進める。50年史は年代ごとに沿革と当時の『主婦の友』(1953年社名と共に改称)の記事及び関係者の寄稿を掲載し、雑誌と主婦像の変遷を見ることができる。巻末に創業者石川武美のエピソードと年譜、石川が創立した(財)お茶の水図書館(現・(財)石川文化事業財団お茶の水図書館)の概要を記載。
(名)商業興信所 サービス業 『三十年之回顧』(1922.05) 日銀の初代大阪支店長外山脩造(とやま・しゅうぞう、1842-1916)は欧米で信用取引発達ための信用調査機関の重要性を知る。関西地区の銀行30行の協力を得て、日本初の興信業として1892年(明25)商業興信所を大阪に設立。1894年(明27)には東京興信所創立のため渋沢栄一が視察に訪れる。1920年(大9)合名会社に改組。副所長執筆の30年史は編年体で経済界概況と大阪地区を中心とした商業動向を詳述し、商業興信所記事では人事や海外との提携にも触れる。[1944年(昭19)東京興信所と合併し(株)東亜興信所となる]
センチュリリサーチセンタ(株) サービス業 『センチュリリサーチセンタ二十年史』(1979.03) 伊藤忠商事が米国Bendix社のコンピュータを導入し開設した計算センタ。伊藤忠の販売促進をバックアップし、受託計算による収益を目指す。
(株)第一勧銀ハウジング・センター サービス業 『20年のあゆみ』(1989.12)
(株)第一ホテル サービス業 『夢を託して : 第一ホテル社史』(1992.03) 第二次大戦前の日本のホテルは外国人と一部富裕層が対象で、稼働率は低く企業業績もよくはなかった。利用しやすい価格設定と実用性を目指し、東京の実業家らが東京電灯と読売新聞から新橋の土地を譲り受け、1937年(昭12)第一ホテルを創立。命名は相談役で東京電灯社長の小林一三(こばやし・いちぞう、1873-1957)。戦後の一時期は他の主要ホテル同様米軍に接収され、1956年(昭31)自主営業に戻る。その後は東京オリンピックを契機に新しい事業展開を続け発展する。創立50年を機に計画された社史は序章で日本のホテル史を概観し、創立からの沿革を8章にわたり詳述。[2002年(平14)阪急ホテルズと合併し(株)第一阪急ホテルズに商号変更(現在は阪急阪神ホテルズ)]
(株)大広 サービス業 『Daiko』(1994.03)
(株)ダイヤモンド社 サービス業 『七十五年史』(1988.11) 新潟出身の石山賢吉(いしやま・けんきち、1882-1964)は慶應義塾商業学校で学び出版社を転々とした後、1913年(大2)にダイヤモンド社を起こし経済雑誌『ダイヤモンド』を創刊。経済界の出来事を正確な「算盤」によって判断し、小さくとも「ダイヤモンド」の如く権威ある報告をなすとの姿勢を貫き、広く読者の共感を得る。時代の潮流の中で社業は試練と躍進を重ね、1933年(昭8)株式会社となり発展する。75年史は創業からの歩みを9章に分け、読みやすくまとめた通史。数々のビジネス誌の創刊・休刊、また教育市場の開拓など多角経営の取り組みを記す。『ダイヤモンド社二十五年史』(1938年刊)や『ダイヤモンド』誌の記事等を随所に引用。
(株)中央公論社 サービス業 『中央公論社の八十年』(1965.10) 1886年(明19)京都西本願寺普通教校の有志学生らが反省会なる修養団体を結成、翌年機関誌として『反省会雑誌』を創刊。後に『反省雑誌』と改題、反省会本部を反省雑誌社と改め、1896年(明29)東京へ移転。1899年(明32)には堅苦しい誌名から『中央公論』と改題、社名も反省社と改称した。売行きは好調で1912年(大元)本願寺から独立、1914年(大3)中央公論社と改称、1926年(大15)には株式会社となり発展する。1944年(昭19)軍部の圧力で廃業するが翌年末には再建、戦後の出版ブームの中で全集や新書も刊行し社業を拡張する。80年史は作家の執筆による物語的な叙述で「風流夢譚」事件などにも触れ、巻末に詳細な年表を付している。同社の全集と同様の装丁。[1999年(平11)出版権などを読売新聞グループへ営業譲渡し、中央公論新社となる]
(株)中国新聞社 サービス業 『中国新聞八十年史』(1972.05)
(株)中国新聞社 サービス業 『中国新聞百年史』(1992.12)
(株)中国新聞社 サービス業 『中国新聞百年史. 資料編・年表』(1992.12) 『中国新聞百年史』(社史ID:14690)の資料編
(株)帝国データバンク サービス業 『Self-portrait : 帝国データバンク百年の肖像』(2000.06)
(株)帝国データバンク サービス業 『情報の世紀 : 帝国データバンク創業百年史』(2000.06) 福岡出身の後藤武夫(ごとう・たけお、1870-1933)は法律を学び新聞記者等を経て興信業設立を目指し、独力で1900年(明33)東京に帝国興信社を創業。1902年(明35)帝国興信所と改称し、1906年(明39)株式会社となる。『帝国経済雑誌』『帝国信用録』『帝国銀行会社要録』等を発刊し、実業道徳の興隆を意図して成長、海外へも進出する。戦後高度情報化社会を迎えコンピュータシステムを導入し、1981年(昭56)帝国データバンクと改称。100年史は序章で興信業の誕生を述べ、創業からの歩みを時代順の7章で実証的に詳述。多くの写真やコラムを交えた立体的な編集で、後藤が発刊し渋沢栄一も支援した雑誌『日本魂』にも触れる。引用資料は各頁欄外に明記し、支店小史を含む詳細な資料編付で、編集過程をあとがきに記す。索引付。普及版『Self-portrait : 帝国データバンク百年の肖像』とCD-ROM版『TDBの世紀』を同時に刊行。
(株)帝国ホテル サービス業 『ホテルと共に七十年』(1964.04) 石川県出身の犬丸徹三(いぬまる・てつぞう、1887-1981)は東京高等商業学校卒業後、満洲・上海・欧州・米国でホテル業務に従事。1890年(明23)開業の帝国ホテルに1918年(大7)招聘され帰国し、翌年副支配人に就任。ライト設計の新館建築中の1923年(大12)支配人となる。昭和期の発展を築き戦火を乗り越え終戦後1945年(昭20)末に社長に就任。戦後のホテル事業復活と共に観光業界発展にも尽力する。本書は70年余りの人生の大半をホテル業界に身を置き、帝国ホテルの業績向上に深く貢献した著者の自伝。「半生の記」と題し38回に渡り日本ホテル協会機関誌『ホテル・レビュー』に連載した記事を元に編集。真摯な語り口で帝国ホテルと日本のホテル業界の足跡を描き出している。
(株)帝国ホテル サービス業 『帝国ホテル物語 : ホテルが綴る近代史 : 開業九十周年記念』([1980.11あとがき]) 1890年(明23)に開業した帝国ホテルの90周年記念誌。創業時から首都東京に相応しい役割を追求してきた帝国ホテルは、時代の要請に対応するオフィス機能を備えたインペリアルタワー建築中に90周年を迎える。社史は少ないページ数ながら建物や関わった人々の写真を数多く取り入れた編集で、スタッフや顧客のエピソードもはさみ、帝国ホテルの沿革と特徴をわかりやすくまとめている。
(株)帝国ホテル サービス業 『帝国ホテル百年史 : 1890-1990』(1990.11) 幕末の開国以後、外国の賓客接待のための近代ホテルの必要性が高まる。財界実力者渋沢栄一、大倉喜八郎らを発起人に1887年(明20)有限責任東京ホテル会社設立。しかし近くに同名のホテルがあり1890年(明23)有限責任帝国ホテル会社と改称し、同年帝国ホテル開業。1893年(明26)株式会社に改組。1923年(大12)にはライト設計の全館が完成、同年の関東大震災の被害も軽微で、戦前戦後を通じて多くの来日外国人が宿泊。戦後は進駐軍に接収されるが、解除後は観光ビジネスの拡大と共に事業を拡充。1970年(昭45)に現本館が完成し、卓越したサービスの提供を目指して発展する。本格的社史として初めて編纂された100年史は沿革編と資料編からなる。沿革編は帝国ホテルの創業からの経営施策の足跡に加え、関連の深い観光行政や帝国ホテルが欧米から移入した生活文化等についても触れる。人名・事項索引付。同時に普及版と英語版の社史も刊行。
(株)帝国ホテル サービス業 『The Imperial : the first 100 years』(1990) 『帝国ホテル百年史』の英語版。序章"Hospitality : a medley of traditions"では、西欧の伝統を受け継ぎながら日本の迎賓館としての歴史を築いた帝国ホテルの「もてなしの心」に触れる。第1章"The grand design"では、1890年(明23)の開業前後からホテルの基礎を作り上げた時期を扱う。第2章"The vibrant image"は、ライト館時代の輝かしい発展と戦争前後の時期を述べる。第3章"Practical accommodations"では、新しい時代に即した本館を建築し更に向上を目指すホテルの姿を描く。巻頭に年表を置き本文中に多くの写真をとりいれた編集。
(株)帝国ホテル サービス業 『帝国ホテル百年の歩み』(1990.11) 『帝国ホテル百年史』の普及版。1890年(明23)の開業からの経営の歩みを第1部に置き、第2部以降は帝国ホテルが時代の先駆けとなり、生活文化の伝播あるいは創造に大きな影響を与えた足跡を、「文化」「建築」「料理」の角度からまとめている。読みやすい文体で写真や図版を豊富に取り入れ具体的に提示した編集。
(株)帝国ホテル サービス業 『Imperial Hotel : a legend in pictures』(2003.03) 1890年(明23)の開業から100年以上にわたる帝国ホテルの歩みを写真で綴った社史。日本の西欧化の足跡を示すホテル建物や各種設備、行事とそこに集った人々、レストランのメニューなど各時代の写真を解説付きで配している。本文は英語と日本語併記で、巻末の"The Imperial : a brief history in words"「3つの物語 : 帝国ホテルの軌跡」に沿革をまとめている。[巻頭にライトがデザインした帝国ホテル用食器の写真]
(株)帝国ホテル サービス業 『帝国ホテルの120年』(2010.12)
(株)電通 サービス業 『電通66年』(1968.12)
(株)電通 サービス業 『虹をかける者よ : 電通90年史 1901-1991』(1991.06)
(株)東亜興信所 サービス業 『東奔西走百年の歩み』(1992.03) 日銀の初代大阪支店長外山脩造(とやま・しゅうぞう、1842-1916)は欧米で信用調査機関の重要性を知る。関西地区の銀行30行の協力を得て、日本初の興信業として1892年(明25)商業興信所を大阪に設立。東京では第一銀行頭取渋沢栄一の主導で京浜地区の銀行26行の協力のもと、1896年(明29)東京興信所が発足。両者はそれぞれに業績を伸ばしていたが、1944年(昭19)戦時下の企業再建整備計画の一環として合併し、東亜興信所が設立された。1978年(昭53)にはホテル業に進出。創業100周年を記念して1992年(平4)にサン・トーアと商号変更。100年史は本文15章と付録から成り、本文では興信事業の起源から、それぞれの会社の創業者外山脩造と渋沢栄一の略歴と交友関係、商業興信所及び東京興信所の創業と合併までの経緯、合併後100周年に至るまでを記述。
(株)東京会館 サービス業 『東京会館いまむかし』(1987.10)
(株)東京会館 サービス業 『東京会館いまむかし. 資料編』(1987.10) 『東京会館いまむかし』(社史ID:14800)の資料編
東京興信所 サービス業 『東京興信所事業案内 : 創立廿五週年記念 = Business report in memory of 25 years' establishment 1896-1920, Tokyo Koshinjo』(1920.02) 信用取引の発達のため1892年(明25)大阪に設立の商業興信所は東京の銀行家にもその設立を提案し、渋沢栄一ら発起人は京浜の有力銀行26行の協力を得て1896年(明29)東京興信所を創立。信用調査を開始し全国に出張所を設け、商業興信所や海外の興信所とも連絡を取って活動を広げる。『商工信用録』『銀行会社要録』『全国銀行会社統計要覧』『東京興信所報』を次々創刊し調査結果を会員に報告。25周年記念の事業案内は小冊子ながら巻頭に渋沢栄一揮毫の「信為万事本」を置き、沿革と事業概要を簡潔にまとめている。海外でも配布のためか巻頭写真のキャプションは全て英語併記。[1944年(昭19)商業興信所と合併し(株)東亜興信所となる]
東京書籍(株) サービス業 『東京書籍百年史』(2010.09)
東京書籍(株) サービス業 『東京書籍100年のあゆみ』(2010.09)
(財)東京大学出版会 サービス業 『東京大学出版会50年の歩み』(2001.05)
(株)東京宝塚劇場 サービス業 『東宝十年史』(1943.12)
(株)東京堂 サービス業 『東京堂の八十五年』(1976.03)
(株)東京堂 サービス業 『東京堂百年の歩み』(1990.05)
(株)東京堂 サービス業 『東京堂百二十年史』(2010.06)
東京日日新聞社 サービス業 『東日七十年史』(1941.05) 1872年(明5)東京における最初の日刊新聞として『東京日日新聞』が日報社から発行される。渋沢栄一の紹介で明治政府に加わり、辞職後は新聞記者を目指した福地桜痴(ふくち・おうち、1841-1906)が入社し紙面を改革。官報に当たる太政官記事と社説を掲載。福地取材の西南戦争報道や岸田吟香(きしだ・ぎんこう、1833-1905)の活躍で声価を高める。1911年(明44)東京進出を目指した大阪毎日新聞社の傘下にはいり東京日日新聞社となり、題号を継続した『東京日日新聞』を発行。70年史は創業からの沿革を、新聞記事を交えてわかりやすく記述している。[1943年(昭18)大阪毎日新聞社が毎日新聞社と改称、『大阪毎日新聞』と『東京日日新聞』は『毎日新聞』に統一]
東宝(株) サービス業 『東宝二十年史抄』(1954.11)
東宝(株) サービス業 『東宝三十年史』(1963.01)
東宝(株) サービス業 『東宝五十年史』(1982.11)
東宝(株) サービス業 『帝劇の五十年』(1966.09) 1906年実業家が集まり、国際的な文化施設である劇場を立て、歌舞伎芝居等を諸外国に紹介するため、帝国劇場(株)の設立を計画。渋沢栄一は創立委員長。1907年劇場完成、内外の舞台芸術家が出演し連日満員の好評を博す。1923年関東大震災で焼失するが翌年には改築。しかし興行不振等で1929年松竹に経営が移り、外国映画の封切館となる。1937年(株)東京宝塚劇場に吸収合併され、1943年東宝(株)に社名変更。社史には1964年改築で閉鎖するまでの約50年間の詳細な主要興行年譜、舞台写真集、渋沢秀雄らの随想を掲載。
東宝(株) サービス業 『帝劇ワンダーランド : 帝国劇場開場100周年記念読本』(2011.01)
東宝映画(株) サービス業 『東宝映画拾年史抄』(1942.09) 記録映画撮影や録音請負等の事業で1932年(昭7)発足した(株)写真化学研究所の植村泰二・大橋武雄らは、劇映画製作の(株)ピー・シー・エル映画製作所を1933年(昭8)設立。同社は(株)東京宝塚劇場及び京都の(株)ゼー・オー・スタヂオと共に、制作映画の配給会社として1936年(昭11)東宝映画配給(株)を設立する。1937年(昭12)臨戦体制の中で写真化学研究所、ピー・シー・エル映画製作所、ゼー・オー・スタヂオ、東宝映画配給の4社は合併し、東宝映画(株)が誕生。渋沢秀雄(しぶさわ・ひでお、1892-1984)は監査役、渋沢同族(株)渋沢敬三(しぶさわ・けいぞう、1896-1963)は株主。写真化学研究所発足からの10年史は制作映画の場面や俳優の写真、沿革、現況、回顧録、年表、劇映画364本の作品目録等からなり、前身4社の沿革にも触れている。[1943年(昭18)東京宝塚劇場に合併し、東宝(株)と改称]
東宝東和(株) サービス業 『東和の半世紀 : 1928-1978』(1978.04)
(社)同盟通信社 サービス業 『通信社史』(1958.12)
(株)東洋経済新報社 サービス業 『東洋経済新報社百年史』(1996.09) 日清戦争に勝利した1895年、経済問題に関する情報提供の重要性を説く町田忠治により、旬刊の『東洋経済新報』が創刊。1863年生まれの町田は帝大で法制経済を学び、法制局、朝野新聞を経て郵便報知新聞に所属、欧米に滞在中「エコノミスト」等の経済誌が経済界に絶大な信用と権威を持つことを知る。町田の居宅で旗を揚げた東洋経済新報社は1907年に合名会社、1921年株式会社に改組。石橋湛山(のち蔵相、首相)、高橋亀吉ら名主幹のもと、経済ジャーナリズムの根幹を築く。
(株)長崎新聞社 サービス業 『激動を伝えて一世紀 : 長崎新聞社史』(2001.09)
(株)日刊工業新聞社 サービス業 『日刊工業新聞二十年史』(1965.09)
(株)日刊工業新聞社 サービス業 『日刊工業新聞七十年史』(1985.09)
(株)日本経済新聞社 サービス業 『日本経済新聞九十年史』(1966.12)
(株)日本経済新聞社 サービス業 『日本経済新聞社百年史』(1976.12)
(株)日本経済新聞社 サービス業 『日本経済新聞社110年史』(1986.12)
(株)日本経済新聞社 サービス業 『日本経済新聞社120年史』(1996.12)
(株)日本経済新聞社 サービス業 『日経テレコン20年のあゆみ』(2005.02)
(株)日本経済新聞社 サービス業 『日本経済新聞社130年史』(2006.12)
(株)日本経済評論社 サービス業 『私どもはかくありき : 日本経済評論社のあとかた』(2008.10)
(財)日本交通公社 サービス業 『五十年史 : 1912-1962』(1962.09) 外賓接待のため渋沢栄一らが1893年(明26)組織した喜賓会は、日露戦争後に業績不振となっていた。鉄道、汽船、ホテル業者らは新たな外人旅行客誘致機関設置を企図し、栄一らの援助を得て1912年(明45)ジャパン・ツーリスト・ビューロー創立。国内外に事務所を設置し日本人旅行も取扱い業容を拡大する。1927年(昭2)社団法人となり大衆旅行普及機関として発展。1942年(昭17)(財)東亜旅行社と改組。1945年(昭20)9月(財)日本交通公社と改称し、内外の旅行斡旋業務を広げる。50年史は創業からの歩みを時系列で詳述し、戦時下の宣伝文化事業や戦後の出版事業にも触れている。巻末に資料付。首脳陣の評伝を『この人々』として別途出版。[1963年旅行営業部門を分離し(株)日本交通公社(現(株)ジェイティービー)設立]
(株)日本交通公社 サービス業 『日本交通公社七十年史』(1982.03) 1912(明治45)年、ジャパン・ツーリスト・ビューローとして創立。1927(昭和2)年、社団法人となる。1934(昭和9)年に日本旅行協会の事業を吸収し国内旅行客部門を拡大。1941(昭和16)年、社団法人東亜旅行社に改称。その後財団法人に改組、さらに社名を東亜交通公社と改める。1945(昭和20年)、財団法人日本交通公社(JAPAN TRAVEL BUREAU)に改称。1963(昭和38)年、営業部門を分離し、株式会社日本交通公社を設立する。以降、財団法人日本交通公社は公益事業を行う調査研究機関として存続。[2012(平成24)年に公益財団法人に移行。また株式会社日本交通公社は、1988(昭和63)年よりJTBに呼称変更を行い、2001(平成13)年に株式会社ジェイティービー、2018(平成30)年より株式会社JTBに商号変更を行っている。]創立70周年を記念して編纂された本史は、財団法人と株式会社双方の歴史が掲載されており、社史であるとともに団体史ともいえる。編纂は財団法人、発行は株式会社名義となっている。本編は戦前編、戦後編と営業部門を株式会社として分離したのちの財団編で構成されている。巻末に年表・資料編を付属。本史では日本交通公社とは法人としての関係はないが、その創立前史として喜賓会の記述がみられる。渋沢栄一は日本への外国人観光客の誘致を目論み、構想を共にした益田孝らと日本初の外客誘致機関である喜賓会を1893(明治26)年に創立する。[栄一は同会幹事長、副会長となる。]ジャパン・ツーリスト・ビューローの創立により、喜賓会がその役割を終え解散となると、栄一は同会の財産、事務員を引き継ぐようビューローに要請するも断られている。なお本史では栄一がビューローの創立を援助したという記述がある。
日本新聞連盟 サービス業 『日本新聞百年史』(1962.01)
日本新聞連盟 サービス業 『北海道マスコミ総覧. 1963』(1962.01) 『日本新聞百年史』(社史ID:15120)の別冊付録
日本電報通信社 サービス業 『電通社史』(1938.10) 1901(明治34)年、光永星郎(みつなが・ほしお、1866-1945)は日本広告株式会社および電報通信社を設立。1906(明治39)年、電報通信社を改組し、株式会社日本電報通信社を設立。翌年、日本広告株式会社を合併。1936(昭和11)年、通信部を同盟通信社へ譲渡。同盟通信社広告部を合併した。以後、広告専業となる。本社史は、創立から同盟通信社への通信部譲渡に至る約36年間の歴史を記したもの。会社の通史である総覧篇と部門史の通信篇、広告篇からなる。明治後半から昭和初期の通信・広告業界史としても貴重な文献。写真や関係者の揮毫も豊富に掲載されている。
(財)日本美術協会 サービス業 『日本美術協会年表 : 創立50年記念』(1928.04)
日本和洋酒缶詰新聞社 サービス業 『大日本洋酒缶詰沿革史 : 附載・洋酒、罐詰、乳製品登録商標』(1915.07)
(株)博文館 サービス業 『博文館五十年史』(1937.06) 長岡出身の大橋佐平(おおはし・さへい、1836-1901)は教育・出版に携わった後上京し、1887年(明20)博文館を創業。雑誌『日本大家論集』を創刊して好評を博し、宗教・教育・実業関係の雑誌を次々発行。翌年息子の大橋新太郎(1863-1944)も上京し社業に参加、図書出版にも進出し頭角を現す。1890年(明23)取次販売の東京堂を創立。1895年(明28)雑誌『太陽』創刊、「懐中日記」の出版を開始。1897年(明30)専用印刷工場の博文館印刷所(現・共同印刷)と、洋紙店博進堂(現・新生紙パルプ商事)を創設。1902年(明35)大橋図書館(現・三康図書館)を開設。1918年(大7)博文館は株式会社に改組し発展する。50年史は役員の執筆で創業からの歩みを編年体で記述し、巻末に出版年表を付す。[1947年(昭22)廃業。継承する出版社として1949年(昭24)博友社、翌年博文館新社が創立している。東京堂は1964年(昭39)東京堂出版と東京堂書店に分離]
(株)博報堂 サービス業 『広告六十年』(1955.10)
(株)白洋舎 サービス業 『白洋舎五十年史』(1955.03) 五十嵐健治(いがらし・けんじ、1877-1972)は勤務していた三越呉服店から独立するにあたり、社会に必要とされながら人気のない洗濯業に取り組み、1906年(明39)東京日本橋に白洋舎を創業。出入り先の三越に得意客を紹介され、要望に応じて研究を重ね日本初のドライ・クリーニングを開始する。1920年(大9)会社組織に改組し全国に支店を広げる。戦時中の資材・人手不足の困難を乗り越え、戦後は進駐軍の洗濯を手始めに民需拡大によりめざましく発展する。50年史ではドライ・クリーニング研究開発当初の苦労から戦後の興隆期までの沿革を、多くの写真を交えながら記述。創業者が熱心なキリスト教信者であったため、社業とキリスト教との関わりについても触れている。
箱根温泉供給(株) サービス業 『箱根温泉供給社史』(1982.09) 渋沢栄一・益田孝(ますだ・たかし、1848-1938)らは1879年(明12)酪農のため仙石原に耕牧舎を設立。一方大涌谷の良質な温泉は1887年(明20)より宮内省が買収を進めていた。1928年(昭3)栄一らは耕牧舎の資産を引き継ぎ温泉付別荘分譲を行う仙石原地所を設立。次に温泉の集中管理のため、1930年(昭5)箱根温泉供給(株)を設立した。宮内省より広大な土地の提供を受け、箱根の土地開発と分譲地への温泉供給に多大な貢献を果たす。1941年(昭16)仙石原地所を合併。50年史は耕牧舎と仙石原地所の歩みを扱った前史、50年のあゆみ、現況、資料からなる。巻頭に会長を務めた渋沢秀雄(しぶさわ・ひでお、1892-1984)による絵と俳句を掲載。
(株)福武書店 サービス業 『福武書店30年史 : 1955~1985』(1987.04)
(資)冨山房 サービス業 『冨山房』(1932.10) 土佐出身の坂本嘉治馬(さかもと・かじま、1866-1938)は18歳で上京後、同郷の小野梓(おの・あずさ、1852-1886)主宰の出版社東洋館で実務に携わる。小野没後その志を継ぎ、1886年(明19)冨山房を設立。人文社会科学分野の教科書や辞典類を次々出版し、『大日本地名辞書』『大言海』『大日本国語辞典』等図書雑誌3000点余を世に出す。社屋新築記念に出版した社史は、設計図や写真入りの本店新築工事概要、各界名士53人からの祝辞、冨山房47年史、社員一覧、冨山房出版年史からなる。渋沢栄一は同社の雑誌『新日本』に顧問として関わる。[1993年(平5)冨山房4代目坂本嘉広は(株)冨山房インターナショナルを新たに創立し、新刊出版とともに明治大正期の冨山房出版物を復刻再版している]
(資)冨山房 サービス業 『冨山房五十年』(1936.10)
婦女新聞社 サービス業 『婦人界三十五年』(1935.05) 福島四郎(1874-1945)は1900年(明治33)『婦女新聞』を創刊。創刊から35年を祝して刊行された本書は、福島が『婦女新聞』誌上に掲載した記事から約1/3を選び、9編に分類して掲載したもの。第1-4編は婦人論、婦人運動、女子教育、家庭等、女性の関わる問題に焦点を置いた記事。第5編は明治からの時代ごとの時事問題で、第6編は津田梅子(1864-1929)ら傑出した女性達および渋沢栄一(1840-1931)を含む関連人物のエピソード集。第7編は江戸時代の歌人井上通女(1660-1738)らの小伝集で、第8編は随筆などの著作。第9編「婦人界女教界小史」は、創刊以来35年間の婦人界女子教育界の主な事件を年月順に列記したもの。以上本書は福島個人の著作にとどまらず、日本の婦人問題変遷の資料となっている。なお渋沢栄一は婦女新聞後援会の相談役を務めた。また栄一長女の穂積歌子(1863-1932)は『婦女新聞』の熱心な読者であった縁で、本書序文は歌子長男の穂積重遠(1883-1951)が執筆している。[『婦女新聞』は1942年3月22日の2185号を以て廃刊]
(株)平凡社 サービス業 『平凡社六十年史』(1974.06) 兵庫県の立杭(たちくい)で陶業をしていた下中弥三郎が上京し1914年に創業。戦前の「大百科事典」は戦後「世界大百科事典」となり、雑誌「太陽」も創刊。社史本文は作家尾崎秀樹が執筆。巻末に「平凡社発行書目一覧」がついている。
(株)報知新聞社 サービス業 『報知七十年』(1941.06)
(株)報知新聞社 サービス業 『世紀を超えて : 報知新聞百二十年史 : 郵便報知からスポーツ報知まで』(1993.06)
(株)北海道新聞社 サービス業 『北海道新聞十年史』(1952.08)
(株)毎日新聞社 サービス業 『毎日新聞七十年』(1952.02) 1876年(明9)将就社から創刊された大阪初の日刊紙『大阪日報』は民権運動の中で休刊し、記者らは1882年(明15)『日本立憲政党新聞』の創刊に関わる。政党の解散を機に政党紙の号数を継承した新たな『大阪日報』を1885年(明18)大阪日報社から発行。1888(明21)年には不偏不党の実業新聞として『大阪毎日新聞』と改題、発行元は大阪毎日新聞社と改称し1893年(明26)合資会社に改組。1911(明44)年東京へ進出し東京日日新聞を合併、1918年(大7)株式会社に改組する。1943年(昭18)社名を毎日新聞社と改称、『大阪毎日』と『東京日日』の題号も『毎日新聞』に統一する。70年史は1)創刊から東京進出まで、2)全国紙として飛躍発展、3)『自由な新聞』確立への道、という区分で沿革を記述。「スポーツと文化への貢献」「東京日日新聞八十年」等は別立てで詳述している。
(株)読売新聞社 サービス業 『読売新聞八十年史』(1955.12)
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