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会社名 | 業種 | 社史タイトル(出版年) | 会社沿革と社史メモ |
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(株)アウルホールディングス | サービス業 | 『10年のあゆみ : 株式会社アウルホールディングス : これからも心地よい生活環境をカタチに。』([2013]) | |
(株)青森銀行 | 銀行 | 『青森銀行史』(1968.09) | 青森県では明治以降小野組から三井組が公金を扱っていた。旧弘前藩士らは禄券保全の銀行を発起し、渋沢栄一の勧奨により1878年(明11)第五十九国立銀行を創立。また地元資本の金融機関も漸次設立され、経済発展と共に躍進する。1943年(昭18)戦時下の金融統制のもと銀行合同が勧奨され、青森県では第五十九銀行を中心に八戸銀行、津軽銀行、板柳銀行、青森銀行(旧)の5行が合同し、青森銀行(新)が創設された。本社史第1部は研究者の執筆で明治以降の青森県の銀行業生成と発展を記述。第2部が新立の青森銀行の20年史、第3部で県内44行および県外16行の県内支店の沿革に触れ、付編で青森銀行の現況を紹介。 |
(株)秋田銀行 | 銀行 | 『創立三十周年記念誌』([1926]) | 1895年に第一国立銀行秋田支店の廃止決定を受け、翌1896年同支店の営業部門を譲り受け秋田県内の有力者が協同して設立。30周年を記念して出された社史は小冊子ながら写真入で上質の装丁。[渋沢栄一は相談役(1897)] |
(株)秋田銀行 | 銀行 | 『秋田銀行百年史』(1979.12) | 1879年秋田に創立された第四十八国立銀行と、1896年第一国立銀行秋田支店の営業部門を譲り受けて創立された旧秋田銀行、1897年創立の湯沢銀行の3行が、1941年戦時統制により合併して新たに設立。百年史は1879年からの歩みを節目ごとの10章に分け編集。合併した多くの銀行の小史も含む。旧秋田銀行ほか県内6行は第一国立銀行秋田支店の廃止に際し、県内産業の開発振興に尽くしたとして、第一銀行頭取渋沢栄一あての感謝状を出しており、それに対する栄一の礼状も社史に載っている。 |
(株)秋田銀行 | 銀行 | 『秋田銀行110年のあゆみ』(1990.01) | 「百年史」の後を受け、「110年史」は最近10年の歩みに焦点を当てた小冊子。 |
曙ブレーキ工業(株) | 自動車・自動車部品 | 『半世紀の歩み』(1979.05) | 岡山出身で同志社に学んだ納三治(おさめ・さんじ、1873-?)は、米国留学後自動車のブレーキライニング(摩擦材)製造の将来性に着目。1929年(昭4)東京に曙石綿工業所を設立、曙は故郷の景色から、社章は同志社の許可を得て校章と同じ三稜とした。外国車だけでなく国産車にも部品供給し1936年(昭11)株式会社に改組。戦時中は軍需物資供給元として業績拡大。戦後米国ベンディックス社との技術提携を機に1960年(昭35)曙ブレーキ工業と改称。自動車だけでなく鉄道車輛や産業機械用の総合ブレーキメーカーとして、時代の要請に応える。50年史は巻頭グラビアに各種交通機関とブレーキの発達史を載せ、本文は沿革編と部門別の技術編、資料、年表で構成。 |
(株)浅沼組 | 建設 | 『浅沼組100年 : 100 years of growth』(1992.12) | |
(株)浅沼商会 | 商社 | 『浅沼商会百年史』(1971.10) | |
アサノコンクリート(株) | 窯業 | 『アサノコンクリート「40年のあゆみ」』(1991.11) | |
浅野セメント(株) | 窯業 | 『浅野セメント沿革史』(1940.12) | 1848年富山生まれの浅野総一郎は横浜で石炭売買に成功、王子の抄紙部へ石炭を納めたことから渋沢栄一に見出される。コークス納入先の深川の官営セメント工場を、栄一の紹介で1883年払下を受ける。栄一は出資者、監査役(1898-1909)。1930年総一郎没後浅野泰治郎が社長を継ぎ、総一郎と改名。沿革史は第1部は本邦セメント工業発祥の事情から1939年までの主要史実を編年体で記述。第2部は各工場や支店営業所の沿革・現況、商標などを横断的に記述。[1947年日本セメントに社名変更、1998年秩父セメントと合併] |
(株)浅野造船所 | 造船 | 『我社の生立』(1935.12) | 1896年(明29)東洋汽船を設立した浅野総一郎(あさの・そういちろう、1848-1930)は、自ら手掛けた東京湾大規模埋立事業地に造船所設立を計画。当初は横浜造船所として1916年(大5)創立し、同年浅野造船所と改称。造船工事に着手し第一次大戦による船舶需要に応じる。1918年(大7)浅野製鉄所を合併し製鉄業を始め、船渠も築造し船舶修繕業にも事業を広げる。創立から20年を経て編纂された社史は、創立の経緯と現況を8章に分けて元役員が執筆し、浅野総一郎が関わった幅広い事業の流れを概観している。[1936年(昭11)鶴見製鉄造船と改称、1940年(昭15)日本鋼管に合併] |
旭化成(株) | 化学工業 | 『旭化成八十年史』(2002.12) | 1922年レーヨンの製造を目的に設立された旭絹織と、日本窒素肥料による我が国最初のアンモニア合成工場の2つが出発点。1933年に旭ベンベルグ絹糸として統合、1946年から旭化成となる。創業者野口遵は技師として水力発電に関わり、ジーメンス社で経験をつむ。欧米に伍して近代化学工業を発展させ、現在は繊維、ケミカル、住宅・建材、エレクトロニクス、医薬・医療、酒類等と多角化経営。 |
旭化成(株) | 化学工業 | 『旭化成八十年史 : 資料編』(2002.12) | 『旭化成八十年史』(社史ID:03010)の資料編 |
旭化成(株) | 化学工業 | 『旭化成の80年 : Asahi Kasei: the first 80 years』(2003.06) | |
旭硝子(株) | 窯業 | 『社史』(1967.12) | 我が国の窓ガラス製造業は1900年頃には企業化が試みられたがいずれも頓挫していた。岩崎弥之助の次男俊弥は国産窓ガラスの製造を志し、1907年兵庫県尼崎に旭硝子(株)を設立、社長となる。社名は弥之助の発案、社章は岩崎家の家紋菱印を図案化したもの。板ガラス、その原料のソーダ、耐火炉材の3事業の国産化を図る。1944年日本化成工業と合併し三菱化成工業(株)となるが、戦後財閥解体により1950年旭硝子(株)として再発足。社史は設立から1966年までの60年史で、編年体の総合史と事業ごとの部門史からなる。 |
旭硝子(株) | 窯業 | 『旭硝子100年の歩み : 伝統・創造・革新』(2007.09) | |
旭硝子(株) | 窯業 | 『旭硝子100年の歩み : 伝統・創造・革新. 資料編』(2007.09) | 『旭硝子100年の歩み : 伝統・創造・革新』(社史ID:04130)の資料編 |
朝日生命保険(相) | 保険 | 『朝日生命八十年史 : 1888-1968』(1968.03) | 海軍会計学舎で英国の経済学等を学んだ加唐為重(かから・ためしげ、1855-1892)は、英国を発祥とする科学的生命保険理論に基づく生命保険会社設立に奔走、福原有信(ふくはら・ありのぶ、1848-1924)らを創立委員に1888年(明21)帝国生命保険(株)を創業した。福原は設立前に、渋沢栄一ら財界人とも交際のある海軍軍医総監高木兼寛(たかき・かねひろ、1849-1920)に、生命保険会社設立の計画を相談、全面的な支援の約束を得る。1910年(明43)経営権安定のため大株主として古河家が加わる。第二次大戦後の再建整備のため1947年(昭22)第二会社の帝国生命保険(相)を設立、すぐに朝日生命保険(相)と改称。80年史では前半で帝国生命60年、後半で朝日生命20年を記載している。[別冊の資料編(1969年刊)あり] |
朝日生命保険(相) | 保険 | 『朝日生命百年史. 上巻』(1990.03) | |
朝日生命保険(相) | 保険 | 『朝日生命百年史. 下巻』(1990.03) | 『朝日生命百年史. 上巻』(社史ID:10310)の下巻 |
朝日生命保険(相) | 保険 | 『朝日生命百年史. 資料編』(1992.03) | 『朝日生命百年史. 上巻』(社史ID:10310)の資料編 |
旭電化工業(株) | 化学工業 | 『社史 : 旭電化工業株式会社』(1968.03) | |
旭電化工業(株) | 化学工業 | 『旭電化七十年史』(1989.07) | |
(株)ADEKA | 化学工業 | 『ADEKA100年史』(2017.11) | |
アサヒビール(株) | 食品 | 『Asahi 100』(1990.08) | 明治初期、輸入ビールに対抗して近畿財界、醸造界の有力者が集まり、1889年有限責任大阪麦酒会社を設立。1892年「アサヒビール」初出荷。1906年札幌麦酒、日本麦酒と合併し、大日本麦酒(株)設立。戦後分割され1949年朝日麦酒(株)発足。1989年アサヒビール(株)に社名変更。100年史は現況、沿革、広告、技術、資料編の章立てで、本文中に豊富な図版が含まれている。 |
アサヒビール(株) | 食品 | 『アサヒビールの120年 : その感動を、わかちあう。』(2010.11) | |
朝日放送(株) | 通信 | 『ABC十年』(1961.03) | |
朝日放送(株) | 通信 | 『朝日放送の50年. 1 本史』(2000.03) | |
朝日放送(株) | 通信 | 『朝日放送の50年. 2 番組おもしろ史』(2000.03) | 『朝日放送の50年. 1 本史』(社史ID:13180)の2巻 |
朝日放送(株) | 通信 | 『朝日放送の50年. 3 資料集』(2000.03) | 『朝日放送の50年. 1 本史』(社史ID:13180)の3巻 |
(株)足利銀行 | 銀行 | 『創立四十年誌 : 昭和十年十月』(1935.12) | |
(株)足利銀行 | 銀行 | 『足利銀行史』(1985.10) | |
味の素(株) | 食品 | 『味の素沿革史』(1951.03) | 1907年(明治40)設立の鈴木製薬所でヨード等を製造していた[2代]鈴木三郎助(すずき・さぶろうすけ、1867-1931)は、昆布から抽出したうま味で特許を得た池田菊苗(いけだ・きくなえ、1864-1936)博士と協力し工業化を図る。商品名を「味の素」とし、1909年(明治42)発売開始。各地に代理店を置き、1912年(大正元)合資会社鈴木商店と改称。商品開発を進め販売体制も拡充し、1917年(大正6)株式会社に改組。国外にも販路を開くが戦時中は一時生産を中断。戦後再び生産開始し、1946年(昭和21)味の素(株)と改称して資本金を増強し発展する。工業化着手から40年に当たって編纂した社史は、調味料と文化から書き起こした沿革と記録を1-2章に、海外発展史や部門史を3-7章にまとめ、回顧録を最後に付している。広告宣伝物や製造工程図等を本文中に取り入れた編集。[鈴木三郎助は渋沢栄一らが発起した日本化学工業(株)の専務を務めた] |
味の素(株) | 食品 | 『味の素株式会社社史. 1』(1971.06) | 「味の素」発売60年を機に編纂された社史で、1.戦前編と2.戦後編の2冊からなる。1.は1888年(明治21)に始まる鈴木家のヨード事業から書き起こし、戦時下の経営難まで。2.は戦後の復興から1960年代の多角化と国際化までの内容。既刊の『味の素沿革史』は社内の編集であったのに対し、本社史は経済学者土屋喬雄の監修のもとに日本経営史研究所が制作した。各編巻頭には有機化学の権威である坂口謹一郎、赤堀四郎両博士の随想を載せ、さらに民俗学者宮本常一の「日本における調味料の歴史」も1.に掲載している。 |
味の素(株) | 食品 | 『味の素株式会社社史. 2』(1972.09) | 『味の素株式会社社史. 1』(社史ID:00970)の2巻 |
味の素(株) | 食品 | 『味をたがやす : 味の素八十年史』(1990.07) | |
味の素グループ | 食品 | 『味の素グループの百年 : 新価値創造と開拓者精神 : 1909→2009』(2009.09) | |
味の素グループ | 食品 | 『味の素グループの百年 : 新価値創造と開拓者精神. 索引』(2012.03) | 『味の素グループの百年 : 新価値創造と開拓者精神』(社史ID:01000)の索引 |
芦森工業(株) | 繊維 | 『芦森工業創立二十五年史』(1964.05) | 大阪の芦森武兵衛は1878年綿麻問屋を開業。紡績機械付属品ロープの将来性に目をつけ、製造を始める。1894年芦森製綱所発足、工場を拡張し増産の結果、紡績用ロープは輸入から輸出に転じる。1935年(株)芦森製綱所となり、戦争末期は東洋紡績(株)の傘下に入り軍需品も生産、1944年社名を芦森工業(株)と変更。戦後は民需に転換し新製品開発を進め、消防用ジェットホースは世界各国へ輸出し、わが国屈指のロープメーカーとなる。25年史は個人経営の時代も含めながら簡潔に編集されている。 |
麻生セメント(株) | 窯業 | 『麻生百年史』(1975.04) | 筑前の庄屋の息子麻生太吉は1872年石炭採掘事業に着手。1881年嘉麻社を設立、次々と業容を拡大し、筑豊有数の炭鉱主として産業基盤づくりをはかる。銀行・電力・鉄道事業から医療関連事業にも発展。太吉没後1934年に孫の太賀吉が(株)麻生商店と産業セメント鉄道(株)の社長に就任。石炭からセメント事業へ重心を移し、1966年麻生セメント(株)発足、麻生グループは40社に及ぶ。1973年から社長に麻生太郎就任。百年史は本史の他、多くの寄稿文に加え膨大な資料を1冊にまとめた1500頁を超える大作。 |
安宅産業(株) | 商社 | 『安宅産業六十年史』(1968.10) | 金沢出身の安宅弥吉(あたか・やきち、1873-1949)は東京高商(現一橋大)卒業後外国貿易を志し、1895年(明28)日下部商店入店、砂糖取引に携わる。1904年(明37)大阪に安宅商会を創業、香港に支店を置き世界各地と多品目の貿易を行う。1908年(明41)の銃器貿易に関わる辰丸事件、翌年の砂糖取引に関わる日糖事件も克服、信用を重ねて発展し1919年(大8)株式会社へ改組。戦時下1943年(昭18)安宅産業と改称、戦後再建を果たし総合商社として発展する。60年史は創業時からの沿革と現況をそれぞれの社会状況と共に記し、海外支店の変遷も掲載している。[1977年(昭52)伊藤忠商事に吸収合併。東洋陶磁器の安宅コレクションは大阪市に寄贈され大阪市立東洋陶磁美術館となる] |
(株)尼崎製鋼所 | 鉄鋼業 | 『尼鋼十年史』(1942.05) | |
尼崎築港(株) | 建設 | 『尼崎築港70年史』(1999.03) | 渋沢栄一の援助で実業家として活躍していた浅野総一郎(あさの・そういちろう、1843-1930)は、欧米視察から近代的港湾設備の整備を痛感し、鶴見・川崎に大規模な臨界工業地帯を造成。続いて大阪湾に面した尼崎に臨海工業地帯を造成することを目的として、1929年(昭4)尼崎築港を設立。これは一万トン級の外航船舶の停泊できる港を民間の力で建設し、わが国産業の発展に寄与しようとするものであった。第二次大戦後埋立事業は公営化されて事業全体を失ったが、埋立造成地の一部を所有し、土地・建物などの賃貸業を主な事業として再生した。70年史は創業者浅野総一郎の経歴と尼崎の沿革を「創立前史」として詳述し、創立以来の経営の軌道を時代の動向と共に記述している。[現在の英文社名: Amachiku Co., Ltd.] |
(株)新井清太郎商店 | 商社 | 『株式会社新井清太郎商店九十年史』(1979.11) | |
荒川林産化学工業(株) | 化学工業 | 『荒川林産百年史 : 松脂と共に』(1977.04) | 大阪出身の荒川政七(あらかわ・まさひち、1825-1904)は薬問屋に奉公の後1856年(安政3)和薬商の玉屋を開業、1876年(明9)荒川政七商店と改称。松脂を必要とする製紙産業の興隆や、農薬・塗料用などの需要増に伴い、取扱い品目が次第に松脂中心となる。品質向上に努め1920年(大9)頃からは「松脂の荒川」として業界に知られる。1943年(昭18)荒川林産化学と改称、第二次大戦後は製紙業界向けにインキのにじみを止める強化サイズ剤を提供し好評を得る。100年史は歴代経営者の時代ごとに沿革をまとめ、「日本松脂産業小史」にも多くの頁を割いている。[1977年(昭52)荒川化学工業と改称。100年史は日本経営史研究所主催第1回優秀会社史賞特別賞を受賞している] |
アルプス電気(株) | 電気機器 | 『アルプス50年のあゆみ』(1998.12) | |
(株)阿波銀行 | 銀行 | 『阿波銀行七十年小史』(1967.12) | |
(株)阿波銀行 | 銀行 | 『阿波銀行百年史』(1997.05) | |
安全自動車(株) | 自動車・自動車部品 | 『交通報国 : 安全自動車70年のあゆみ』(1989.04) | |
(株)安藤七宝店 | その他製造業 | 『鏤采摛文 : 安藤七宝店百年史』(1981.09) | |
アンリツ(株) | 電気機器 | 『アンリツ100年の歩み』(2001.06) | |
(株)郁文堂 | サービス業 | 『株式会社郁文堂創業八十年記念誌』(1979.10) | |
(株)池田銀行 | 銀行 | 『池田銀行十年史』(1961.10) | |
石川島重工業(株) | 機械 | 『石川島重工業株式会社108年史』(1961.02) | 1853(嘉永6)年、江戸幕府は欧米列強に対抗すべく、水戸藩に委託して石川島(現在の東京都中央区佃)に石川島造船所を設立。明治維新後は新政府の管理下となり、1872(明治5)年に石川島修船所が発足するが、1876(明治9)年、石川島における官営事業廃止に伴い閉鎖。同年、平野富二が修船所の施設、土地を借用し石川島平野造船所を創立。1889(明治22)年、有限責任石川島造船所となる。1893(明治26)年には、株式会社東京石川島造船所へと発展した。1945(昭和20)年6月、造船だけでなく総合機械メーカーとしてふさわしい名称とすべく、石川島重工業株式会社と改称。1960(昭和35)年、株式会社播磨造船所と合併し、石川島播磨重工業株式会社となる。本社史は水戸藩の石川島造船所設立から石川島播磨重工業株式会社となるまでの108年間を記した。現況編、沿革史編、技術発展史編、諸表からなる1000ページを超える大著。沿革史編では、石川島飛行機製作所など同社が設立した関連会社についても詳しく書かれている。また巻頭グラビアや各ページのコラムなど本文以外の掲載情報も多数。監修は『渋沢栄一伝記資料』編纂主任でもある土屋喬雄。 |
石川島播磨重工業(株) | 機械 | 『石川島播磨重工業社史. 技術・製品編』(1992.04) | 『石川島播磨重工業社史. 沿革・資料編』(社史ID:05260)の技術・製品編 |
石川島播磨重工業(株) | 機械 | 『石川島播磨重工業社史. 沿革・資料編』(1992.04) | 1853(嘉永6)年ペリーが来航し、幕府は海防に狂奔。大船建造を命じられた水戸藩は隅田川河口の石川島に造船所を建設、12月に石川島造船所が創設された。その後石川島平野造船所を経て、渋沢栄一らが出資し1889年有限責任石川島造船所が設立される。1907(明治40)年設立の播磨造船所と1960年に合併して石川島播磨重工業(株)となる。陸海空に渡って技術の蓄積を図り、総合重工業企業に成長。本編「沿革・資料編」と別冊「技術・製品編」あり。 |
石川島播磨重工業(株)技術研究所 | 機械 | 『石川島播磨重工業技術研究所史 : 挑み、拓き、ものづくりを担った技術開発 : 1951年~1999年』(2001.09) | 石川島重工業が1951年土光敏夫社長時代に技術研究所を設立。1960年の合併に伴い播磨造船所研究部を統合。1999年に基盤技術研究所と機械・プラント開発センターに分離・改組されるまでの研究所史。沿革編、技術編、資料編からなる。 |
石津製薬(株) | 医薬品 | 『石津回顧八十年』(1959.04) | |
石津製薬(株) | 医薬品 | 『石津回顧八十年. 続編』(1965.05) | |
(株)いすゞカーライフ | 自動車・自動車部品 | 『いすゞカーライフの30年』(1991.02) | 朝鮮戦争需要を契機に自動車の供給台数が増加。いすゞ自動車(株)では需要増加した自動車補修用部品の純正品を販売推進する為、それまで部品特約販売店として指定していた折橋商事、帝国部品、親和興業の3社との共同出資で、1958年(昭33)協同産業(株)を設立。高度経済成長期に国内外へ発展する。1984年(昭59)社名を(株)いすゞカーライフに変更。30年史では序章の創立前史で戦後の復興と自動車産業、いすゞ自動車と部品流通事情に触れ、前身3社の略史も記載。コラム記事をはさむハンディな体裁で、巻末索引付。[1994年(平6)社名を(株)アイ・シー・エルに変更] |
いすゞ自動車(株) | 自動車・自動車部品 | 『いすゞ自動車史』(1957.04) | (株)東京石川島造船所自動車部では1922年(大11)ウーズレーA9型国産第1号乗用車を完成させ、1929年(昭4)(株)石川島自動車製作所として独立。初代社長は渋沢正雄(しぶさわ・まさお、1888-1942)。1933年(昭8)ダット自動車製造を合併して自動車工業(株)と改称。この時期から製品の自動車の名称に、伊勢の五十鈴川に因んだ「いすゞ」を採用。自動車製造を企画していた東京瓦斯電気工業(株)との合併で1937年(昭12)東京自動車工業(株)を創立、1941年(昭16)にヂーゼル自動車工業(株)と改称。1949年(昭24)再建整備の過程でいすゞ自動車(株)に社名変更する。当社史では第1部が石川島自動車製作所創業時からヂーゼル自動車工業まで、第2部が戦後の復興といすゞ自動車の発展の軌跡。本文中に製品写真等を多数掲載している。 |
いすゞ自動車(株) | 自動車・自動車部品 | 『いすゞ自動車80年史』(2017.08) | |
井関農機(株) | 機械 | 『井関農機60年史』(1989.06) | |
(株)伊勢丹 | 小売業 | 『新世紀への翔き : 伊勢丹100年のあゆみ』(1986.10) | |
(株)伊勢丹 | 小売業 | 『伊勢丹百年史 : 三代小菅丹治の足跡をたどって』(1990.03) | 相模出身で東京湯島の呉服店に奉公していた初代小菅丹治(こすげ・たんじ、1859-1916)は、1886年(明19)神田に伊勢屋丹治呉服店を創業。創意工夫を重ね「帯の伊勢丹」の評判をかち得、1907年(明40)商号を伊勢丹呉服店に改称。関東大震災で被災するが、呉服店から百貨店化を目指し1930年(昭5)(株)伊勢丹設立。1933年(昭8)には有望な商圏の新宿へ進出する。戦後は駐留軍による接収を経て、近代的百貨店として成長する。創業からの100年史は戦後のファッションビジネス形成史を主体とし、これを推進した三代小菅丹治(1918-1984)のリーダーシップを軸に写真を多用して記述。資料編には新宿店の増築工事やフロア構成の変遷が掲載されている。[2008年(平20)三越と共に三越伊勢丹ホールディングスを設立し、その子会社となる] |
(株)伊丹製絨所 | 繊維 | 『伊丹製絨所十年誌』(1933.11) | 福井出身の谷江長は日本毛織(株)へ入り、1902年欧州へ派遣され英国の毛織工場で学ぶ。帰国後設備・製絨法を改良し多大の功績をあげ役員となる。しかし細番手の毛糸や高級服地はまだ輸入品に及ばなかったので、新たに伊丹に工場を建て資本を募り、1922年(株)伊丹製絨所設立。関東大震災後の混乱や豪州羊毛相場暴落などを経ながらも高級品を生産、業績を伸ばす。10年史は写真を多く取り入れた立派な装丁。[1941年東洋紡績(株)と合併] |
市川毛織(株) | 繊維 | 『市川毛織20年史』(1970.12) | [2005年イチカワ(株)に社名変更] |
(名)一誠堂書店 | 小売業 | 『古書肆100年 : 一誠堂書店』(2004.07) | |
伊藤忠商事(株) | 商社 | 『伊藤忠商事100年』(1969.10) | 近江の繊維商初代伊藤忠兵衛(いとう・ちゅうべえ、1842-1903)は1858年(安政5)から近江麻布の行商を始め、1872年(明5)大阪に呉服太物商の紅忠(1884年(明17)伊藤本店と改称)、1893年(明26)に綿糸卸商の伊藤糸店を開店、日清戦後の活況期に東京や海外へ進出。2代忠兵衛(1886-1973)は英国留学後経営改革を行い、1918年(大7)伊藤忠商事設立。第二次大戦時に丸紅商店他との合併により三興、大建産業となるが、1949年(昭24)分割により伊藤忠商事が再発足、総合商社として発展する。100年史の編集には2代忠兵衛が直接関わり、記述には事務能率向上のため社内で使用していた当用漢字・新仮名遣い・カタカナ表記を採用。 |
(株)伊東屋 | 小売業 | 『銀座伊東屋百年史 : one hundred years in stationery』(2004.10) | 東京・銀座生まれの伊藤勝太郎(いとう・かつたろう、1875-1964)は築地居留地で英語を学び西欧文明に触れる。1901年(明34)帝国博品館の勧工場(かんこうば)に洋品小間物店を出店、1904年(明37)には和漢洋文房具店の伊東屋を銀座通りに開業。一般事務の主流は明治後期でも大福帳に算盤であったが、勝太郎は洋帳簿を伊東屋オリジナルとして考案、製造販売した。1910年(明43)の営業品目録には洋式帳簿80種以上を掲載している。第二次大戦後は銀座2丁目に移転し、高度経済成長と共に発展する。100年史は沿革のほか鼎談・座談会・写真で見る百年史など様々な角度で文房具販売の歩みを記述している。 |
(株)イトーキ | その他製造業 | 『イトーキのあゆみ : イトーキ80年史』(1970.10) | 大阪生まれの小野五十三郎(おの・いそさぶろう)は養子縁組で伊藤喜十郎(いとう・きじゅうろう、1855-1936)となり、財界人事務所に勤務していた1890年(明23)、東京で開催された第3回内国勧業博覧会を見学。展示されていた発明特許品を世に広めるための販売店創設を決意、多くの賛同を得て同年大阪に伊藤喜商店を開業。看板は渋沢栄一が揮毫。金庫・謄写版・事務用品など多品目を扱い業績を伸ばす。1937年(昭12)東京へ進出、戦後はオフィスシステムの開発を手掛け1963年(昭37)イトーキと改称。80年史には創業の頃の商品写真を種々載せている。 |
(株)イトーキ | その他製造業 | 『イトーキ100年史』(1991.03) | 100年史は1~4章が80年史を踏まえた前史、5~7章が以降20年の発展を詳述した本史、資料編という構成。渋沢栄一揮毫の「伊藤喜商店」看板写真も掲載。 |
(株)イトー急行 | 陸運 | 『物流と地域にかける : イトー急行創業者史』(2000.03) | |
稲畑産業(株) | 化学工業 | 『稲畑八十八年史 : 1890~1978』(1978.01) | 京都生まれの稲畑勝太郎(いなばた・かつたろう、1862-1949)は師範学校からフランスへ留学、8年間染色を学び1885年(明18)帰国し京都府に奉職。渋沢栄一発起の京都織物へ入社し染色技師長として重責を果たすが、1890年(明23)退職し京都に稲畑染料店を設立。フランスから材料と機械を輸入、東京・天津にも支店を設け業容を拡大し、1943年(昭18)稲畑産業と社名変更。勝太郎は1926年(昭1)渋沢栄一が相談役を務めた日本染料製造の社長に就任。日本染料製造が住友化学工業と合併後、稲畑産業は住友化学工業の染料・化学・医薬品の特約販売店となる。88年史は写真・図版を数多く取り入れ「見る社史」として編集。 |
今治造船(株) | 造船 | 『今治造船史』(1977.03) | 瀬戸内、来島海峡に面した波止浜湾(現・今治市)は南北朝の頃より造船業が発達していた。檜垣正一(ひがき・しょういち、1901-)は父が1901年(明34)に波止浜に興した檜垣造船所で修業。1924年(大13)独立し自営、1940年(昭15)には今治造船(有)を設立。同年今治の有力者により設立された今治船渠(株)と1943年(昭18)合併し、今治造船(株)を設立した。木造船から鋼造船、内航船、近海船、さらに大型遠洋船を手掛け急成長する。1970年(昭45)には丸亀に進出。当社史は檜垣造船所創業からの沿革や檜垣一族の足跡をジャーナリストが執筆し、郷土史のコラムも掲載。建造船はじめ多くの写真付。 |
(株)伊予銀行 | 銀行 | 『伊予銀行五十年史』(1992.06) | |
岩井産業(株) | 商社 | 『岩井百年史』(1964.02) | 京都出身の岩井文助は大阪の加賀屋に奉公、1862年独立して雑貨商を開業し、貿易商として発展する。養子の勝次郎は1896年独立、欧米を視察して本格的貿易業を開始、1912年(株)岩井商店となり業容を拡大する。戦時下1943年岩井産業(株)と改称、終戦後は総合商社として発展する。百年史は「岩井家家憲」等の文書資料も含み、索引付。[1968年日商と合併し日商岩井(株)となる] |
岩田塗装機工業(株) | 機械 | 『岩田塗装機工業株式会社五十年史』(1978.10) | |
(株)岩波書店 | サービス業 | 『岩波書店八十年』(1996.12) | |
宇治川電気(株) | 電力 | 『宇治電之回顧』(1942.12) | 日本初の水力発電所である南禅寺発電所建設をきっかけに、京都の宇治水電、東京の宇治川電力、滋賀の琵琶湖運河の3社が琵琶湖の水源開発を巡って競願。内務省方針のもと合同し、1906年(明39)設立されたのが宇治川電気である。宇治発電所竣工以後、近畿地方へ電力供給を行う一方、近江鉄道などの電気鉄道業にも注力した。1942年(昭17)、配電統制令に基き関西配電に統合され解散。当社史は解散時の取締役会長林安繁(はやし・やすしげ、1876-?)による著作で、歴代役員の功績にもふれ、宇治川の錦絵入り。[関西配電は戦後再編により1951年(昭26)関西電力となる。宇治発電所は関西電力宇治発電所として現在も使用されている] |
浦賀船渠(株) | 造船 | 『浦賀船渠六十年史』(1957.06) | 1853年ペリーが浦賀沖に来航、衝撃を受けた幕府は浦賀に造船所開設。軍艦で来所していた榎本武陽らは後に船渠会社設立に奔走し、浅野総一郎等の賛同を得て1897年浦賀船渠(株)設立。1902年東京石川島造船所の浦賀分工場を買収した時から渋沢栄一との関係が強まり、同年経営不振に陥った際栄一の尽力で再建する。60年史は創業前後から太平洋戦争後の復興発展期までを年代を追って記述。50年史編集のために戦前から収集した資料を元に社内で執筆。 |
栄養食(株) | 小売業 | 『会社五十年の歩み』(1989.03) | 冷凍魚を扱っていた関法之(1905?-)が職場の集団給食を専門に請け負う目的で、1938年(昭13)栄養食会社を設立。軍需工場の増加に伴い全国の食堂の委託経営を引受ける。戦後休業していたが1949年(昭24)ごろから再出発の準備にかかり、翌年社員食堂の請負を始める。縁のある渋沢敬三(しぶさわ・けいぞう、1896-1963)の計らいもあり漸次発展する。50年史は創業者の弟で現会長関誠三郎(せき・せいざぶろう、1911-)の執筆。第1部は設立から第2次大戦終了まで、第2部は戦後の再出発と会社の現況、第3部は著者自身の経営哲学で、渋沢栄一の訓言にも触れる。[関兄弟の祖父関直之は渋沢家洲崎養魚場管理人で、後に洲崎養魚を設立した] |
AIU保険会社 | 保険 | 『AIU45年史』(1991.11) | |
(株)江木写真店 | サービス業 | 『江木五十嵐写真店百年の歩み』(1985.02) | 福山藩士の学者の家に育った江木保男(えぎ・やすお、1856-1898)は写真術に注目し、弟の松四郎をアメリカへ留学させ技術を習得、1884年(明17)東京神田に江木写真店を創設。1889年(明22)には新橋に支店を開設、華族や政財界人で繁盛する。1943年(昭18)に軍部の圧力で解散したが、直後の1944年(昭19)、かつて江木写真店の技術者であり経営にも参加していた五十嵐与七(1885-1967)らが五十嵐写真店を設立し、伝統を継承。1963年(昭38)株式会社となり、都内のホテル、結婚式場などで写真店を展開する。100年史は両社の沿革を通して扱い、技術の変化や顧客の著名人のエピソードを随筆風に記述。また渋沢栄一を含む多くの内外要人の写真、五十嵐与七への追悼文、五十嵐与七の遺稿などを収録し、栄一とオリエンタル写真工業との関連にも触れている。 |
NBC工業(株) | 繊維 | 『NBC工業五十年史』(1986.07) | |
江間忠木材(株) | 商社 | 『商人の道 : 江間忠70年のあゆみ』(1995.12) | |
遠州鉄道(株) | 鉄道・バス | 『遠州鉄道40年史』(1983.12) | 1889年(明22)の東海道線開通以来、浜松は近代産業が次々発展していた。甲州財閥の雨宮敬次郎(あめみや・けいじろう、1846-1911)は地元財界人と共に浜松鉄道を発起。他に敷設の7社を合同し1909年(明42)大日本軌道(株)を設立、浜松鉄道はその浜松支社(後の遠州電気鉄道)とした。一方浜名郡と引佐郡の有志は1912年(大1)浜松軽便鉄道(後の浜松鉄道)を設立、2年後に開業。第二次大戦下の政策により遠州電気鉄道と県内バス事業者は統合し、1943年(昭18)遠州鉄道が設立。終戦後1947年(昭22)浜松鉄道を合併し、遠州鉄道は地域の民営交通機関として発達する。40年史は第1部前史に合併以前の鉄道とバス事業のあゆみを記載、第2部に設立以来の沿革を述べる。 |
王子製紙(株) | パルプ・紙 | 『王子製紙株式会社案内』(1926.03) | 渋沢栄一らの企図で洋紙製造を目的に1972年(明5)会社設立願書提出、翌年認可され抄紙会社が創立。1876年(明9)製紙会社、1893年(明26)王子製紙(株)と改称。近代技術を導入し全国に13工場を擁するまでに発展する。この会社案内は沿革に続き、各工場や事業の概要を簡潔にまとめたもの。後半は工場や設備を写真で紹介し、最後に自社製品の使用用紙7種類の明細を記載している。[会社案内は1910年以降ほぼ隔年で7冊が刊行されている] |
王子製紙(株) | パルプ・紙 | 『王子製紙株式会社案内』(1936.09) | 1872年(明5)創立の王子製紙(株)は1933年(昭8)富士製紙、樺太工業と合併し、全国に34工場、資本金3億円の大企業となる。この会社案内は絹表紙の立派な装丁で本文は神崎工場製のアート紙を使い、1926年版の2倍の大きさ。沿革13頁に続き各工場や設備を大判写真83枚で解説している。 |
王子製紙(株) | パルプ・紙 | 『王子製紙社史. 第1巻』(1956.06) | 渋沢栄一らの尽力で1872年(明5)設立出願、翌年創業した抄紙会社は後に王子製紙となり、当初より近代製紙技術を採り入れ発展。1933年(昭8)富士製紙、樺太工業を合併し、生産量は国全体の8割を占めるまでに成長する。戦後1949年(昭24)過度経済力集中排除法の適用により苫小牧製紙、十条製紙、本州製紙の3社に分割される。創業から分割までの歩みを記した社史は全4巻と附録篇からなる。第1巻は創業から日清戦争まで、第2巻は日露戦争前後、第3巻は大正期から昭和前期、第4巻は太平洋戦争前後、附録篇には明治期創業の製紙会社21社の小史、紙業年表、紙業統計を掲載。各巻に詳細な写真目録と人名索引付。[著者成田潔英(なりた・きよふさ、1884-1979)は王子製紙元社員で紙の博物館初代館長] |
王子製紙(株) | パルプ・紙 | 『王子製紙社史. 第2巻』(1957.05) | 『王子製紙社史. 第1巻』(社史ID:02570)の第2巻 |
王子製紙(株) | パルプ・紙 | 『王子製紙社史. 第3巻』(1958.04) | 『王子製紙社史. 第1巻』(社史ID:02570)の第3巻 |
王子製紙(株) | パルプ・紙 | 『王子製紙社史. 第4巻』(1959.10) | 『王子製紙社史. 第1巻』(社史ID:02570)の第4巻 |
王子製紙(株) | パルプ・紙 | 『王子製紙社史. 附録篇』(1959.10) | 『王子製紙社史. 第1巻』(社史ID:02570)の付録篇 |
王子製紙(株) | パルプ・紙 | 『王子製紙解体余聞』(1958.03) | 第二次大戦後1949年(昭24)王子製紙が解体された経緯を、同社社長中島慶次(なかじま・けいじ、1894-1973)らに経済誌記者薬袋進(みない・すすむ)が取材してまとめた著作。トピックごとの25章からなり、当初GHQが要求した9分割案を最終的に3分割にとどめた会社首脳陣の働きを記録した。『日刊東洋経済』での連載を本にしたもので、王子製紙元社長藤原銀次郎(ふじわら・ぎんじろう、1869-1960)と前首相で東洋経済新報社元社長石橋湛山(いしばし・たんざん、1884-1973)が序文を寄せている。巻末追録に解体経緯を記した王子製紙文献管理委員会記録と、抄紙会社から解体に至る王子製紙の系譜概要と図を掲載。 |
王子製紙(株) | パルプ・紙 | 『王子製紙南方事業史』(1964.06) | 1933年(昭8)の合併で国内最大の製紙会社となった王子製紙は、1941年(昭16)太平洋戦争勃発後に軍部の要請で南方地域へ進出。マレー半島、スマトラ、ジャワ、フィリピン、ニューギニア等の地域に工場を建設し、抄紙機械と技術者・工員計400名以上を送り込む。現地人も採用し現地の木材で生産開始するが、1945年(昭20)の敗戦で全ての工場を喪失する。南方事業史は各地に派遣された社員約40名から原稿を集め、7つの地域ごとに工場建設から帰還までの状況をまとめたもの。本文中に派遣された人々や現地の写真を取り込み、巻末に人名索引付。 |
王子製紙(株) ; 十条製紙(株) ; 本州製紙(株) | パルプ・紙 | 『製紙業の100年 : 紙の文化と産業』(1973.06) | 紙幣類や新聞・書籍用の国産洋紙製造のため、渋沢栄一らの尽力で1873年(明6)抄紙会社が誕生。後に王子製紙と改称し近代技術を導入して発展する。本書は創業100年記念に、旧王子製紙が戦後3分割されて誕生した王子製紙(当初は苫小牧製紙)、十条製紙、本州製紙の3社が共同出版したもので、4つの部分からなる。「紙と文化」では紙の役割を歴史的にたどり、「製紙業100年のあゆみ」では明治以降の近代的製紙業の発達と変遷を記述。「製紙業をになった人びと」では製紙業の発展に関わった40人を取り上げ、写真と共に業績を紹介。「現状と将来の展望」と題した座談会では3社社長が忌憚なく論じあっている。巻末に資料付。[王子製紙は新王子製紙と改称後、1996年(平8)本州製紙と合併し再び王子製紙と改称(現・王子ホールディングス)。十条製紙は合併により1993年(平5)日本製紙となる] |
王子製紙(株) | パルプ・紙 | 『王子製紙山林事業史』(1976.06) | 明治初頭より製紙業を経営した旧王子製紙の山林事業を体系的にまとめたもの。原料の調達と製造からなる製紙事業のうち、森林資源を原料として供給していく山林事業の発展が、安定経営に不可欠であった。本書は第1部総説で本州から北海道、樺太はじめ海外に広がった旧王子製紙の山林事業を地域ごとに概観した上で、業務機構の変遷を記述。第2部各説では会社の創設期、成立期、発展期、合併期、戦後の1949年(昭24)旧王子製紙解体までと時代順に事業の推移を記述し、最後に伐採と並行して行ってきた造林事業に触れる。戦後の解体で発足した王子製紙、十条製紙、本州製紙3社の共同編集で、巻末に編集委員会、共同執筆者、資料提供者・協力者名を掲載。 |
王子製紙(株) | パルプ・紙 | 『王子製紙社史 : 戦後三十年の歩み』(1982.02) | 敗戦後占領政策により1949年(昭24)旧王子製紙は3社に分割される。その中の苫小牧製紙は、新聞用紙の単一品種生産ながら最大規模であった苫小牧工場を引き継ぎ発足。旧王子製紙の伝統を継承し、1952年(昭27)王子製紙工業、1960年(昭35)王子製紙と改称。外地引揚者の受入や大規模労働争議等の問題を克服し、全国に工場を建設。海外にも進出して業界首位の製紙会社に発展する。苫小牧製紙発足からの30年史は6編に渡って沿革を詳述し、巻末に資料編を付す。『王子製紙社史』(1956-59)と同様の装丁。[1993年(平5)神崎製紙を合併し、新王子製紙(株)となる] |
王子製紙(株) | パルプ・紙 | 『王子製紙社史 : 1873-2000. 本編』(2001.08) | 1873年(明6)創立の王子製紙は戦後3分割される。苫小牧工場を引き継いで1949年(昭24)発足した苫小牧製紙は、近代化を進め経営環境の変化に対応して発展。王子製紙工業、王子製紙、新王子製紙と変遷後、本州製紙との合併により1996年(平8)三たび王子製紙となる。苫小牧製紙発足から50年を記念して発刊された社史は、本編・合併各社編・資料編の3冊からなる。本編は30年史(1982)以降の20年に重点を置きつつも、創立からの足跡を通史として記述。合併会社編には北日本製紙、日本パルプ工業、東洋パルプ、神崎製紙、本州製紙の各社史及び、本州製紙に合併した5社の社史を収録。資料編には業界統計も含めた各種資料を掲載。[2012年(平24)持株会社制に移行し王子ホールディングス(株)と改称][社史本編は全文がDNP「社史の杜」サイトで公開されている] |