収録社史一覧

業種"医薬品" 社史一覧 全19件中19件 1件〜19件目を表示

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会社名 業種 社史タイトル(出版年) 会社沿革と社史メモ
石津製薬(株) 医薬品 『石津回顧八十年』(1959.04)
石津製薬(株) 医薬品 『石津回顧八十年. 続編』(1965.05)
三共(株) 医薬品 『三共六十年史』(1960.12) 高峰譲吉がアメリカで発明した胃腸薬「タカヂアスターゼ」を日本で輸入・販売するため、塩原又策、西村正太郎、福井源次郎の三人が共同し、1899(明治32)年に三共商店を設立。翌年、西村、福井が出資から脱退し塩原の単独経営となる。1902(明治35)年からアメリカの製薬会社パーク・デービス社(現・ファイザー)の日本総代理店となる。1907(明治40)年、塩原夫妻の出資による三共薬品合資会社に改組。1909(明治42)年、医科器械部設置に伴い三共合資会社に改称。1913(大正2)年、三共株式会社を設立し、同社に三共合資会社を合併。[2005(平成17年)、第一製薬株式会社との共同持株会社である第一三共株式会社を設立。2007(平成19)年、同社へ経営統合。]設立60周年を期に刊行された社史。1959(昭和34)年の60周年記念行事を含めるため、翌1960(昭和35年)に刊行している。本文全5編と関係会社一覧、年譜等による付録から成る。渋沢栄一は三共株式会社が設立されると後援の求めに応じて取締役に大橋新太郎と植村澄三郎を推薦するなど経営を援助。同社が経営の多角化を進めアルミニウム製造を企画すると、栄一はその製造に利用する電力調達を斡旋している。また1916(大正5)年に同社の姉妹会社としてサトウライト株式会社が設立されると株主となった。[サトウライト株式会社は1919(大正8)年に三共株式会社へ吸収合併。]
三共(株) 医薬品 『三共八十年史』(1979.12) 横浜の絹織物商塩原又策(しおばら・またさく、1877-1955)は業績不振の折、1898年(明31)渡米する友人西村庄太郎に新事業の探索を依頼。西村は胃腸消化薬タカヂアスターゼを創製した高峰譲吉を訪ね、委託販売契約を結ぶ。1899年(明32)に塩原、西村、福井源次郎の3名の共同出資による三共商店を設立。三共薬品、三共(資)と社名変更し業容拡大。1913年(大2)株式会社に改組し、社長に高峰譲吉が就任、新薬を次々と開発する。80年史は創業からの通史で、1960年(昭35)刊の60年史以降の20年を詳述した沿革と、現況・資料からなる。[高峰は渋沢栄一の信頼を得て援助を受けた]
三共(株) 医薬品 『三共百年史』(2000.05)
三共(株) 医薬品 『三共百年史. 資料編』(2000.05) 『三共百年史』(社史ID:03770)の資料編
塩野義製薬(株) 医薬品 『シオノギ100年』([1978]) 薬種問屋の三男初代塩野義三郎(しおの・ぎさぶろう、1854-1931)は、1878年(明11)大阪道修町に塩野義三郎商店を開業、和漢薬の販売を開始。西洋医薬の普及に伴い取扱いを洋薬に切り替える。製薬の試製を始め、1909年(明42)塩野義新薬第1号(制酸剤アンタチヂン)を発売、翌年大阪海老江に塩野製薬所を建設。1918年(大7)塩野義三郎商店と塩野製薬所が合併し、(株)塩野義商店を設立。1943年(昭18)塩野義製薬に社名変更し、戦後は近代化を進め海外にも進出する。100年史は小冊子ながら写真を多用し、創業からの歩みを簡潔な年表の形で再現している。[物語風に沿革をまとめた『シオノギ百年』(塩野義製薬、1978年、533p)の普及版と考えられる]
第一製薬(株) 医薬品 『第一製薬八十年史』(1997.03)
第一製薬(株) 医薬品 『第一製薬九十年史』(2007.01)
大正製薬(株) 医薬品 『大正製薬80年史』(1993.06) 1908年(明41)東京・市谷に泰山堂薬局を開業した石井絹治郎(いしい・きぬじろう、1888-1943)は、ヘモグロビンを主体とした滋養強壮剤「体素」の製造販売を目的に1912年(大1)大正製薬所を創業。1916年(大5)、後の社長上原正吉(うえはら・しょうきち、1897-1983)が公募入社。1927年(昭2)咳止め薬「パブロン」発売。翌年株式会社に改組し、上原の提案で小売販売店に株を持ってもらう特約株主制度を発足させる。1948年(昭23)大正製薬(株)と改称。上原社長の下、新薬開発と販売網整備に邁進し大衆薬市場を拡大する。80年史は年代順の8章で沿革をまとめ、現況は口絵に掲載。別冊の資料編あり。
大正製薬(株) 医薬品 『大正製薬80年史. 資料編』(1993.06) 『大正製薬80年史』(社史ID:03820)の資料編
大日本製薬(株) 医薬品 『大日本製薬六十年史』(1957.05) 大阪の道修町は西日本の薬種取引の中心市場として栄えてきた。明治維新後、洋薬の輸入に取り組み、純良薬品を供給することを目的に道修町の薬業家21人が発起人となり、1897年(明30)大阪製薬を設立。翌年には、日本初の製薬会社として1883年(明16)東京に創立された大日本製薬を吸収合併し、社名を由緒ある大日本製薬(株)と改める。1908年(明41)には大阪薬品試験(株)を合併し事業基盤を確立。新薬開発に取り組み戦後も合理化を進めて発展する。60年史は既刊の50年史を参考に創業からの沿革と現況をまとめている。[2005年(平17)住友製薬と合併し、大日本住友製薬となる]
大日本製薬(株) 医薬品 『大日本製薬八十年史』(1978.05)
大日本製薬(株) 医薬品 『大日本製薬90年のあゆみ』(1987.12)
帝国臓器製薬(株) 医薬品 『帝国臓器製薬80年史』(2000.12)
中北薬品(株) 医薬品 『中北薬品二百五十年史』(1977.11) 名古屋伝馬町の油屋の2代井筒屋(中北)伊助(1722-1807)は薬種問屋で修業し、1747年(延享4)薬種業を兼業。1793年(寛政5)には薬業者の多い京町に進出して薬種専業となる。井筒屋は栄枯盛衰を経て明治期に洋薬の取り扱いを始め、1877年(明10)屋号を中北商店と改める。業界の進歩と近代化に合わせ、1914年(大3)合名会社となる。1944年(昭19)製薬部門を分離して中北製薬(株)を設立するが、戦後1950年(昭25)同社を合併し中北薬品(株)と改組改称。医療機器等の販売にも進出し総合医療産業を目指して発展する。中北家文書と社内資料から編纂した250年史は井筒屋伊助時代、中北商店時代、合名会社時代、中北薬品時代という区分で沿革を記述。各時代の薬業界の状況を、多くの史資料を使って描き出している。
万有製薬(株) 医薬品 『万有製薬八十五年史』(2002.07) 1915年岩垂亨により万有合資会社として創業。第1次大戦によりドイツからの輸入が途絶えたサルバルサンを、国内で合成するのに成功。1944年にペニシリン開発・製造に着手、戦後の製造のリーダーとなる。副腎皮質ホルモンを製造する米国メルク社と提携し、1984年にはその傘下にはいる。巻末にメルク社の小史も掲載。
藤沢薬品工業(株) 医薬品 『藤沢薬品七十年史』(1966.12) 三重出身の初代藤沢友吉(ふじさわ・ともきち、1866-1932)は大阪道修町の薬種問屋に奉公し、1894年(明27)独立して売薬業の藤沢商店を開業。樟脳事業の有望性に目をつけ家庭用防虫剤として開発生産し、販売高を伸ばす。新薬開発も進めて業容を拡大し1930年(昭5)(株)藤沢友吉商店に改組。戦時下医薬品生産の拡充に伴い1943年(昭18)藤沢薬品工業(株)と改称。戦後は組織改革や研究開発、海外企業との連携を進め発展する。70年史は沿革を記した主篇、定款など資料をまとめた副篇、創業者の伝記である特集篇からなる。[2005年(平17)山之内製薬と合併し、アステラス製薬(株)となる]
藤沢薬品工業(株) 医薬品 『藤沢薬品八十年史』(1976.03)
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