収録社史一覧

業種"食品" 社史一覧 全60件中60件 1件〜60件目を表示

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会社名 業種 社史タイトル(出版年) 会社沿革と社史メモ
アサヒビール(株) 食品 『Asahi 100』(1990.08) 明治初期、輸入ビールに対抗して近畿財界、醸造界の有力者が集まり、1889年有限責任大阪麦酒会社を設立。1892年「アサヒビール」初出荷。1906年札幌麦酒、日本麦酒と合併し、大日本麦酒(株)設立。戦後分割され1949年朝日麦酒(株)発足。1989年アサヒビール(株)に社名変更。100年史は現況、沿革、広告、技術、資料編の章立てで、本文中に豊富な図版が含まれている。
アサヒビール(株) 食品 『アサヒビールの120年 : その感動を、わかちあう。』(2010.11)
味の素(株) 食品 『味の素沿革史』(1951.03) 1907年(明治40)設立の鈴木製薬所でヨード等を製造していた[2代]鈴木三郎助(すずき・さぶろうすけ、1867-1931)は、昆布から抽出したうま味で特許を得た池田菊苗(いけだ・きくなえ、1864-1936)博士と協力し工業化を図る。商品名を「味の素」とし、1909年(明治42)発売開始。各地に代理店を置き、1912年(大正元)合資会社鈴木商店と改称。商品開発を進め販売体制も拡充し、1917年(大正6)株式会社に改組。国外にも販路を開くが戦時中は一時生産を中断。戦後再び生産開始し、1946年(昭和21)味の素(株)と改称して資本金を増強し発展する。工業化着手から40年に当たって編纂した社史は、調味料と文化から書き起こした沿革と記録を1-2章に、海外発展史や部門史を3-7章にまとめ、回顧録を最後に付している。広告宣伝物や製造工程図等を本文中に取り入れた編集。[鈴木三郎助は渋沢栄一らが発起した日本化学工業(株)の専務を務めた]
味の素(株) 食品 『味の素株式会社社史. 1』(1971.06) 「味の素」発売60年を機に編纂された社史で、1.戦前編と2.戦後編の2冊からなる。1.は1888年(明治21)に始まる鈴木家のヨード事業から書き起こし、戦時下の経営難まで。2.は戦後の復興から1960年代の多角化と国際化までの内容。既刊の『味の素沿革史』は社内の編集であったのに対し、本社史は経済学者土屋喬雄の監修のもとに日本経営史研究所が制作した。各編巻頭には有機化学の権威である坂口謹一郎、赤堀四郎両博士の随想を載せ、さらに民俗学者宮本常一の「日本における調味料の歴史」も1.に掲載している。
味の素(株) 食品 『味の素株式会社社史. 2』(1972.09) 『味の素株式会社社史. 1』(社史ID:00970)の2巻
味の素(株) 食品 『味をたがやす : 味の素八十年史』(1990.07)
味の素グループ 食品 『味の素グループの百年 : 新価値創造と開拓者精神 : 1909→2009』(2009.09)
味の素グループ 食品 『味の素グループの百年 : 新価値創造と開拓者精神. 索引』(2012.03) 『味の素グループの百年 : 新価値創造と開拓者精神』(社史ID:01000)の索引
カルピス食品工業(株) 食品 『70年のあゆみ』(1989.07) 大阪の寺に生まれた三島海雲(みしま・かいうん、1878-1974)は仏教大学に学び、大志を抱いて1902年(明35)中国大陸に渡る。蒙古の地で緬羊事業に携わり、蒙古民族の活力源である酸乳に出会い、1915年(大4)帰国。翌年醍醐味(資)を設立し滋養料「醍醐味」を生産、販売。その事業を継承して1917年(大6)ラクトーを創立、1919年(大8)に酸乳をベースにした日本初めての乳酸菌飲料「カルピス」を発売。「カル」はカルシウム、「ピス」は味覚を表すサンスクリット語から三島が命名。1923年(大12)カルピス製造に商号変更、1948年(昭23)、第2会社としてカルピス食品工業を設立。53年間にわたって経営の第一線にあった三島海雲は、1970年(昭45)93歳で取締役社長を勇退。70年史は全8章のうち6章が三島海雲に関わる記述で、学術振興に私財を投じた三島海雲記念財団についても触れている。[1997年(平9)カルピス(株)に商号変更。2007年(平19)味の素(株)の完全子会社になる]
キッコーマン(株) 食品 『キッコーマン株式会社八十年史』(2000.10) 1917年(大正6)千葉県野田で醤油醸造にたずさわる茂木・高梨一族と、流山の堀切家の8家の醸造家が合同して、野田醤油(株)設立。初代社長は茂木七郎右衛門(もぎ・しちろうえもん、1860-1929)。本書では創業前の「しょうゆ小史」で紀元前からの調味料の歴史を概観。戦後しょうゆ単品の経営から脱却し、多角化・国際化経営を軌道に乗せる。1964年(昭和39)キッコーマン醤油(株)、1980年(昭和55)キッコーマン(株)と社名変更。年表は簡略だが目次が詳細。
キッコーマン(株) 食品 『キッコーマン株式会社百年史』(2020.01) 現在の千葉県野田市でしょうゆ醸造業を営んでいた茂木家・高梨家および同県流山市の堀切家の一族8家が合同し、1917(大正6)年、野田醤油株式会社を設立。1925(大正14)年、合併のために設立した野田醤油醸造株式会社を存続会社とし、創業者一族で別々に経営していた野田醤油株式会社、万上味淋株式会社、日本醤油株式会社を統合。合同後の会社を新しい野田醤油株式会社とする。1964(昭和39)年、商号とブランド名を一致させる必要性などからキッコーマン醤油株式会社に社名変更。さらに1980(昭和55)年、事業の規模と内容の変化に合わせて社名をキッコーマン株式会社に変更。しょうゆ、みりん、ケチャップ、ワイン、豆乳などの生産のほか、食育など食に関する体験、食文化普及活動にも力を入れている。千葉県野田市には「キッコーマン国際食文化研究センター」がある。本社史は4部12章にまとめた本編としょうゆをテーマにした附編および資料編から構成される。野田醤油株式会社設立から2017(平成29)年までの100年間は本編に、野田醤油株式会社設立前史は附編後半にまとめられている。映像資料『海を渡ったしょうゆ:キッコーマン100年 野田から世界へ』(Blu-ray、DVD各1枚)を付属。
キッコーマン醤油(株) 食品 『キッコーマン醤油史』(1968.10) 室町時代から醤油製造が始まった野田では、原料と水運の利に恵まれ江戸期に醤油生産が栄える。明治期に販路を全国へ広げ機械化も進み、1917年(大正6)一族の合同により野田醤油(株)創立。1964年(昭和39)従来の商標を社名にキッコーマン醤油(株)と改称。創立50年記念に編纂された社史は、既刊の20年史、30年史に多くの資料と図版を加え、更に日本の「食の歴史と醤油」の考察を附録としている。
協和発酵工業(株) 食品 『薔薇は薔薇 : 協和発酵35年史』(1984.08) 協和化学研究所で発酵研究に携わった加藤弁三郎(かとう・べんざぶろう、1899-1983)は実業化のため1943年(昭18)東亜化学興業へ移るが、まもなく終戦となる。再建を託された加藤は社名を協和産業と改め、ペニシリン等の製造で発酵工業の柱を確立。その後再建整備法適用を受け第二会社として1949年(昭24)協和発酵工業を設立。ストレプトマイシンとアセトン・ブタノール発酵の技術導入成功により体力をつけ、数々の技術革新により植物ホルモンや石油化学部門へも進出する。協和発酵工業設立からの35年史は前半が写真中心の技術史、後半が組織と営業の変遷を年表と写真でまとめている。刊行直前に没した創業者のスナップ写真を巻末に掲載。[キリンホールディングス傘下のキリンファーマ(株)との合併により2008年(平20)協和発酵キリン(株)となる]
麒麟麦酒(株) 食品 『麒麟麦酒株式会社五十年史』(1957.04) 1870年(明3)横浜天沼のスプリング・ヴァレー・ブルワリーで、W.コープランド(William Copeland, 1834-1902)が日本初のビールを醸造。その後会社は在日欧米人らに買取られてジャパン・ブルワリーが設立される(渋沢栄一も出資)。三菱関係者の支援を受けていた明治屋が1888年(明21)にジャパン・ブルワリー製ビールの販売権を得、「キリンビール」の銘柄で発売。1907年(明40)に明治屋、三菱合資、日本郵船がジャパン・ブルワリーを買取り麒麟麦酒(株)を設立。50年史はビールに因む錦絵や写真を豊富に採りいれ、沿革と現況を記述している。
麒麟麦酒(株) 食品 『麒麟麦酒の歴史. 戦後編』(1969.01)
麒麟麦酒(株) 食品 『麒麟麦酒の歴史. 続戦後編』(1985.03)
麒麟麦酒(株) 食品 『キリンビールの歴史. 新戦後編』(1999.04) 「キリンビール」の銘柄は三菱社管事の荘田平五郎が「西洋のビールは狼や猫などの動物が用いられているので、東洋の霊獣麒麟を商標にしよう」と主張してつけたといわれている。1907(明40)年に明治屋、三菱合資、日本郵船の協力により麒麟麦酒(株)を設立。社史はこれまで「五十年史」「戦後編」「続戦後編」がでており、この「新戦後編」は1983年以降15年間の歩みに2/3以上のページが割かれている。
月桂冠(株) 食品 『月桂冠三五〇年の歩み』(1987.10) 1637年(寛永14)初代大倉治右衛門(おおくら・じえもん、1615-1684)が交通の要の京都伏見にて酒屋を創業、屋号を笠置屋、酒銘を「玉の泉」と称す。明治期に東京へ出荷、品質向上を図り、洋式簿記へいち早く移行。1905年(明38)銘酒中の勝者を願い「月桂冠」を商標登録、海外へも販路を広げる。1909年(明42)大倉酒造研究所を設置し、科学的な研究体制を導入。1910年(明43)には駅売用にコップ付小壜を新案。1927年(昭2)個人経営の大倉恒吉商店を株式会社へ改組。1944年(昭19)大倉酒造に社名変更。1987年(昭62)創業350年を機に社名を月桂冠とする。当該社史はハンディな体裁で350年の歩みを年表とコラムの形でまとめ、巻頭には口絵の他、沿革を概観した「月桂冠と伏見酒造業」と「酒の歴史と民俗」を掲載。[初代大倉治右衛門は、屋号を称する時は笠置屋六郎右衛門としていた]
小西酒造(株) 食品 『白雪の明治・大正・昭和前期 : 11考・業茂、12考・業精の時代』(1995.09)
サッポロビール(株) 食品 『サッポロビール120年史 : Since 1876』(1996.03) 1876年札幌に開拓使麦酒醸造所が開業。大倉喜八郎に払い下げられ、渋沢栄一らの出資により1888年札幌麦酒会社が誕生。一方1887年設立の日本麦酒醸造会社は1890年に恵比寿ビールを発売、東京を代表する銘柄になる。販売競争の中で札幌麦酒、日本麦酒、大阪麦酒の3社が1906年に合同し、大日本麦酒(株)が成立。強固な販売網を形成して国内はもとよりアジア市場へも輸出拡大。敗戦により1949年日本麦酒と朝日麦酒の2社に分割。日本麦酒は1964年サッポロビール(株)に社名変更、1971年には「ヱビスビール」も復活。
サントリー(株) 食品 『やってみなはれ』(1969.05) 大阪生まれの鳥井信治郎(とりい・しんじろう、1879-1962)は薬種問屋等に奉公の後、1899年(明32)葡萄酒製造販売の鳥井商店開業。1906年(明39)寿屋洋酒店と改称、翌年「赤玉ポートワイン」を発売。事業拡大し1921年(大10)(株)寿屋創立。京都に工場を建設しウィスキーの製造販売開始、海外へも輸出する。1963年(昭38)サントリー(株)に改称、サントリービール製造発売開始。70年史は本編「やってみなはれ」と資料編「みとくんなはれ」からなり、本編の沿革部分は元社員の作家山口瞳と開高健が執筆。資料編は製品開発、研究・生産設備、営業活動、宣伝活動等を写真中心にまとめている。[2009年(平21)サントリーホールディングス(株)を設立し、純粋持株会社制に移行]
サントリー(株) 食品 『みとくんなはれ』(1969.06) 『やってみなはれ』(社史ID:01130)の資料編
台糖(株) 食品 『台糖九十年通史』(1990.09)
大日本製糖(株) 食品 『日糖最近十年史』(1919.04) 静岡で精製糖製造を研究していた鈴木藤三郎は1890年東京に鈴木製糖所設立、1895年日本精製糖(株)となる。事業の拡大に伴い大阪の日本精糖(取締役渋沢栄一)他数社と合同して1906年大日本製糖(株)を設立するが、1909年政界工作が発覚し疑獄事件発生(日糖事件)。相談役渋沢栄一の奔走で実業家藤山雷太が社長に就任し事態を収拾。「最近十年史」は事件の顛末から書き起こし、1919年までの再建と発展について記述。巻頭に栄一の書あり。
大日本製糖(株) 食品 『日糖最近二十五年史』(1934.04) 1909年に藤山雷太が社長に就任してからの25年史。前半の創業・整理・遂行篇は1919年刊の「最近十年史」の改訂増補。後半の発展・大成・現状・統制篇はその後の状況を前半と同じ文語体で述べる。沖縄の大東島で粗糖工場を経営していた東洋製糖(株)を1927年合併。
大日本製糖(株) 食品 『二十五周年祝賀会誌』(1934.07)
大日本製糖(株) 食品 『日糖六十五年史』(1960.12) 1890(明治23)年、鈴木藤三郎(すずき・とうさぶろう、1855-1913)は鈴木製糖所を設立。1895(明治28)年、同製糖所を基に日本精製糖株式会社が創業。1906(明治39)年、日本製糖株式会社を合併し、大日本製糖株式会社となる。その後の事業の拡大により1943(昭和18)年、日糖興業株式会社に名称変更。終戦を経て、1950(昭和25)年に再び大日本製糖株式会社に名称変更。本社史は、日本精製糖株式会社創業から65年間を記述。当初創業50周年を記念した『日糖略史』の刊行が計画されていたが敗戦により中止。本社史第一編「創業から五十年」は『日糖略史』をほぼ再録する形で編纂されている。終戦前後の事項の記述も詳しく、一企業の経営に見る戦争史としても貴重な記録となっている。
大日本麦酒(株) 食品 『大日本麦酒株式会社三十年史』(1936.03) 東京の日本麦酒、北海道の札幌麦酒(渋沢栄一は設立委員)、大阪の大阪麦酒は激しい販売競争を続けていたが、清浦農商務大臣の斡旋により3社は1906年合併し、大日本麦酒(株)設立。社史は前半が大日本麦酒の30年史で、後半は「麦酒の紀元と発達」と題し、日本と外国の歴史をそれぞれ詳述している。口絵写真は役員・工場のほか各国の麦酒ジョッキ等も含まれ、各種麦酒の商標の図柄も豊富に掲載あり。[1949年日本麦酒と朝日麦酒に分割]
大日本麦酒(株) 食品 『サッポロビール沿革誌』(1936.07)
台湾製糖(株) 食品 『台湾製糖株式会社史』(1939.09) 明治以降消費が増加した砂糖は、ほとんどが輸入品であった。日清戦争で台湾が日本の領土となり、甘蔗栽培に適した台湾での糖業創設が企図される。元ハワイ国公使アーウィン(Robert Walker Irwin、1844-1925)の指導のもと、益田孝(ますだ・たかし、1848-1938)らは1900年(明33)台湾製糖(株)を設立(渋沢栄一は株主)。工場を建設し2年後には操業を開始。栄一が関わった八重山糖業(株)等から新式機械を譲受けた。生産高を伸ばし工場を増設、製糖機械の開発や原料甘蔗の品質改良も進めて発展する。創立35年を機に編纂された社史は、巻頭に創業からの沿革の概説を置く。第1-9章が時代ごとの詳細な沿革で、第5章には明治末期の大暴風雨襲来による被害と対策を記述。現況と傍系会社等を第10章にまとめている。[1950年(昭25)内地資産を継承して台糖(株)発足(現・三井製糖(株))]
(株)虎屋 食品 『「和菓子からwagashiへ」展 : 虎屋五世紀のあゆみ』(2003.05)
(株)虎屋 食品 『虎屋の五世紀 : 伝統と革新の経営. 通史編』(2003.11) 和菓子店虎屋は、御所御用を務めた後陽成天皇の即位より60年前の1526年(大永6)を創業としている。歴代店主の信仰する毘沙門天に縁深い虎を屋号にしたと考えられている。1869年(明2)明治天皇の東京遷都と共に、東京出張所を開店。1938年(昭13)京都店・東京店を統合し、従業員の待遇も徐々に整える。戦後は菓子原材料不足から一時休業を余儀なくされるが、1947年(昭22)虎屋商工(株)に改組、翌年(株)虎屋へ改称。経営環境の変化の中で企業体制を整備し発展する。当該社史通史編は本編と資料編からなり、本編は第1部が前近代、第2部が明治から昭和前期、第3部が戦後の企業化、第4部が老舗企業の飛躍という構成。別冊の史料編には創業から伝わる古文書の翻刻と解説を掲載している。
(株)虎屋 食品 『虎屋の五世紀 : 伝統と革新の経営. 史料編』(2003.11) 『虎屋の五世紀 : 伝統と革新の経営. 通史編』(社史ID:01230)の史料編
日清オイリオグループ(株) 食品 『日清オイリオグループ100年史』(2007.09) 満州の豊富な大豆を資源に1907年(明40)日清豆粕製造(株)が創立。肥料用の豆粕の副産物であった大豆油の製造販売が進み、1918年(大7)日清製油と改称。戦争を経て洋食志向の進展に伴いサラダ油の需要が伸びる。製品輸出と共に海外での製油事業へ進出し、新製品新事業の開拓も進める。国際競争力強化をめざして2002年(平14)リノール油脂(株)、ニッコー製油(株)と経営統合し持株会社日清オイリオグループ(株)を設立、その事業会社となる。100年史は事業別の10年構想を巻頭に掲げ、沿革を時代別に6章に分け記述。本文中に多くの図版を載せ、100周年目の商品群写真を末尾に掲載。
日清食品(株) 食品 『食足世平 : 日清食品社史』(1992.05) 台湾出身の安藤百福(あんどう・ももふく、1910-2007)は繊維業に携わり大阪へ進出。第二次大戦後の復興にはまず食事が大事と考え、食品加工・製塩などの事業を経て1948年(昭23)加工食品の輸出入・販売業の中交総社を設立。翌年サンシー殖産に改称、1958年(昭33)瞬間油熱乾燥法の即席袋めん(チキンラーメン)を開発し、「日々清らかに豊かな味をつくる」との願いから日清食品に商号変更する。1971年(昭46)カップめんを発売開始、事業を多角化し海外へも発展する。当該社史は7章の本文と資料からなり、創業前史で安藤の生い立ちと即席めん開発を記述。口絵にめん食の文化史や製品・工場写真を多数掲載。[2008年(平20)持株会社日清食品ホールディングス設立、新たに即席めん事業の日清食品(株)が誕生]
日清製粉(株) 食品 『日清製粉株式会社史』(1955.12) 高等商業学校出身の正田貞一郎(しょうだ・ていいちろう、1870-1961)は、麦の産地である郷里の群馬で1900年(明33)館林製粉を創立。製粉機械を輸入し原料を買い付け操業開始する。一方1907年(明40)横浜に創立の日清製粉は、日露戦後の不況を乗り切るため同年館林製粉に合併し、社名は地方色を排し日清製粉とした。大正期には東京湾埋立(株)の埋立地に鶴見工場を建設、貨物船を横付し輸入小麦を真空吸揚装置で工場へ搬入した。昭和期には海外への小麦粉輸出が本格化し、外地工場も経営。第二次大戦後は麦類の消費が増加し、小麦生産高は戦前より増加する。館林製粉創業から50年を期に編纂された社史は、第1篇に小麦と製粉業の沿革、第2-7篇に日清製粉の沿革、第8篇に現況をおき、付録に関係会社略史等を記載。[2001年(平13)持株会社の(株)日清製粉グループ本社を設立、その事業会社となる]
日清製粉(株) 食品 『日清製粉株式会社七十年史』(1970.08)
日清製粉(株) 食品 『日清製粉この十年の歩み』(1980.05)
日清製粉(株) 食品 『チャレンジこの10年 : 日清製粉創業90周年記念史』(1990.05)
日清製油(株) 食品 『日清製油六十年史』(1969.11) 大倉組創始者の大倉喜八郎(おおくら・きはちろう、1837-1928)は日露戦争後、満蒙の豊富な農産資源に着目し、新事業の開発を企図。一方横浜の肥料商松下久治郎(1867-1925)は満州の大豆油粕に注目していた。二人は共同して1907年(明40)日清豆粕製造(株)を創立。大連に工場を建設して操業開始。第一次大戦後に副産物であった大豆油の製造販売が進み、1918年(大7)日清製油と改称、松下久治郎商店を合併。戦時統制、戦後の接収期を経て国内工場を再建し業容を拡大する。60年史は社内の執筆で沿革を時代ごとの8章にまとめ、巻末に資料編と索引付。資料編には「日清サラダ油」の沿革も含む。[2002年(平14)持株会社日清オイリオグループを設立]
日東製粉(株) 食品 『日東製粉株式会社65年史』(1980.05)
日本製粉(株) 食品 『日本製粉株式会社七十年史』(1968.06) 甲州出身の雨宮敬次郎(あめみや・けいじろう、1846-1911)は貿易商として小麦粉生産の将来性に目をつけ、1879年(明12)近代的製粉工場を東京に起こす。官営工場の払下を受け1887年(明20)日本製粉会社設立。のち第四十銀行頭取南条新六郎と弁護士境豊吉が事業を受け継ぎ、1894年(明27)東京製粉設立。1896年(明29)に日本精製糖の出資を得て日本製粉設立。1927年(昭2)の金融恐慌時に三井物産の支援を受け、提携する。70年史は研究者の執筆で明治以前の製粉業を前史として書き起こし、創立後は時代ごとに日本経済全体の潮流、製粉業の動向、会社の動向と経営をまとめている。
日本製粉(株) 食品 『九十年史』(1987.02) 70年史を要約した序章のあと、その後の20年の高度経済成長期と石油ショックによる変動期のあゆみを本編にまとめている。コラムに歴代社長談話をはさみ、巻末に資料編。70年史と同じく研究者による執筆。
日本製粉(株) 食品 『日本製粉社史 : 近代製粉120年の軌跡』(2001.04)
日本甜菜製糖(株) 食品 『日本甜菜製糖70年小史』(1989.09) 渡仏中に甜菜糖業を視察した松方正義(まつかた・まさよし、1835-1924)は1879年(明12)甜菜糖製造所設立を計画、北海道で栽培を始めたが技術不足等で事業は挫折した。第一次大戦で砂糖価格が高騰すると、正義の息子で帝国製糖社長松方正熊(まつかた・しょうくま、1881-1969)は、1919年(大8)北海道製糖(株)を設立し十勝地方で甜菜糖業の再興を図る。翌年(旧)日本甜菜製糖(株)も設立し事業を広げる。1923年(大12)明治製糖は日本甜菜製糖を合併。戦時下1944年(昭19)北海道製糖も明治製糖の傘下に入り北海道興農工業と改称。戦後1947年(昭22)に日本甜菜製糖(株)と改称し、砂糖需要の増加に伴って復興する。70年史は沿革を写真入りで簡潔にまとめ、巻末に資料付。[社史は40年史、50年史、60年史が出ている]
日本甜菜製糖(株) 食品 『日本甜菜製糖100年史』(2019.08)
(株)にんべん 食品 『かつお節物語 : 日本の味から世界の味へ : かつお節を科学して二八〇年』(1979.08) 伊勢出身の初代高津伊兵衛(1679-1729)は江戸の雑穀商に奉公後、1699年(元禄12)日本橋で鰹節商を開始。伊勢屋伊兵衛と屋号を定め良品廉価の方針を貫き現金商売に成功。六代目伊兵衛(?-1837)は1830年代(天保年間)に世界初の商品券を創案し普及させる。伊勢屋は明治以降の激動の時代にも事業を守り1918年(大7)(株)高津商店に改組。1948年(昭23)(株)にんべんと改称。フレッシュパックやだしパックなどの商品開発を進め発展する。創業からの280年史の前半は、3代目が書き残した膨大な『追遠訓』をもとに日本の味としての鰹節の歴史をまとめたもの。後半に会社の沿革を記述し、最後に各界名士26人からのコメントを掲載している。
野田醤油(株) 食品 『野田醤油株式会社二十年史』(1940.10) 江戸川端の野田は常陸大豆や行徳塩が流通し、豊富な水があり江戸時代から醤油醸造が発達した。1887年(明20)には野田醤油醸造組合が結成される。野田の醤油業者はほとんどが茂木・高梨の一族であり、営業上の競争が親族間の対立となることを憂慮し一族八家の合同が成立、1917年(大6)野田醤油(株)が設立。翌年営業開始し、商標は亀甲万印に統一された。1925年(大14)万上味醂と日本醤油(渋沢栄一を顧問に設立)を合併。工場の近代化を図り、労働争議を乗り越え社業を発展させる。20年史は沿革で古代からの野田の経済発展及び、会社設立と20年の歩みを記述。次に組織及び管理、工場、醸造、営業、教養福利施設、関係事業、附録という構成。[1964年(昭36)キッコーマン醤油、1980年(昭55)キッコーマンと社名変更]
野田醤油(株) 食品 『野田醤油株式会社三十五年史』(1955.07)
白鶴酒造(株) 食品 『白鶴二百三十年の歩み』(1977.10)
豊年製油(株) 食品 『豊年製油株式会社二十年史』(1944.07) 大正期に大豆油は抽出法が発達し、菜種油を抜いて需要が増大する。1915年(大4)神戸の鈴木商店は満鉄中央試験場から大豆製油工場を譲受し、鈴木商店製油部大連工場として操業。清水・鳴尾・横浜にも工場建設し増産するが第一次大戦後の不況で事業縮小となる。製油部は独立し、満鉄時代からの商標を社名に1922年(大11)豊年製油が創立。豆粕等製品の開発と宣伝普及に努め社業が発展する。20年史は巻頭の役員・事業場写真、9章からなる沿革、巻末附録の図表と年譜で構成。沿革第1章で創業前の植物油工業界を俯瞰し、物故社員慰霊祭や現況の章も設けている。[1989年(平1)(株)ホーネンコーポレーションに社名変更(現(株)J-オイルミルズ)]
豊年製油(株) 食品 『豊年製油株式会社四十年史』(1963.12)
明治製菓(株) 食品 『明治製菓株式会社二十年史 : 創立二十周年記念』(1936.04) 1906年(明39)台湾に設立の明治製糖では砂糖消費増進のため、1916年(大5)大正製菓を設立。同時期設立の東京菓子へ翌年合併し製造開始、キャラメルやビスケットを発売し好評を博す。1920年(大9)房総練乳を合併し製乳事業を開始。1924年(大13)明治製菓と改称、全国に工場を作り朝鮮、満州、スマトラにも進出する。20年史は会社設立の経緯の後、製菓部と製乳部それぞれの工場略史を掲載。また明治製乳(株)ほか傍系会社にも触れ、工場や商品の写真、製品名一覧等を記載している。[2009年(平21)明治乳業との共同持株会社明治ホールディングスを設立し、子会社となる]
明治製糖(株) 食品 『十五年史』(1921.04)
明治製糖(株) 食品 『明治製糖株式会社三十年史』(1936.04) 欧米で糖業研究を学んだ相馬半治(そうま・はんじ、1869-1946)は台湾で糖業指導に当たり、渋沢栄一らの協力を得て1906年(明39)台南に明治製糖設立。栄一は発起人、創立委員長、相談役を務める。台湾及び内地に工場を建設、同業他社を次々合併し業容を拡大。30年史はコンパクトな装丁ながら工場等の写真を多く掲載し、沿革・現況のほか脱税嫌疑を掛けられた1932年(昭7)の明糖事件や、明治製菓、明治乳業等の傍系事業にも触れている。[戦後内地資産で明糖(株)設立、後に明治製糖を経て1996年(平8)大日本製糖と合併、大日本明治製糖となる]
明治乳業(株) 食品 『おいしさと健康を求めて : 明治乳業70年史 : 激動と変化のこの10年』(1987.12) 明治乳業の一方のルーツである明治製糖は、1917年(大6)房総練乳に資本参加。房総練乳は1920年(大9)東京菓子に合併、東京菓子は1924年(大13)明治製菓に商号変更する。他方静岡の花島練乳場と北海道の札幌練乳場が合併し1917年(大6)極東練乳設立。各地に工場を開設し事業展開するが、不況による業績悪化のため1935年(昭10)明治製菓が経営に参加。戦時の統制強化の中で1940年(昭15)明治製菓は製乳部門を分離独立させ経営を極東練乳に委任、商号を明治乳業とした。戦後はアイスクリームなどの新商品を開発し技術革新を重ねる。50年史、60年史に続く70年史は読みやすさを重視した編集で、現況、創業からの60年史、それ以降の10年史、社員座談会という構成。[2009年(平21)明治製菓との共同持株会社明治ホールディングスを設立し、子会社となる]
森永製菓(株) 食品 『森永五十五年史』(1954.12) 佐賀出身の森永太一郎(もりなが・たいちろう、1865-1937)は米国で西洋菓子製法を学び、1899年(明32)東京に森永西洋菓子製造所を設立。1905年(明38)には貿易商松崎半三郎(まつざき・はんざぶろう、1874-1961)が入店し支配人となる。1910年(明43)会社組織の森永商店設立、1912年(大1)森永製菓と改称。創業時から製造しバラ売りしていたキャラメルは、改良を重ね一粒ずつ包装し携帯に至便かつ外箱を紙にすることで安価になり、菓子店のドル箱となった。1942年(昭17)戦時の企業統合により森永乳業、森永食品工業、東海製菓、森永関西牛乳を合併、翌年森永食糧工業と改称するが、戦後1949年(昭24)商事部門、乳業部門を分離し、森永製菓に社名復帰した。55年史では第1部が森永太一郎と松崎半三郎の回顧録、第2部が創業からの写真録で商品や広告等を紹介、第3部は資料。
森永製菓(株) 食品 『森永製菓一〇〇年史 : はばたくエンゼル、一世紀』(2000.08)
森永乳業(株) 食品 『森永乳業五十年史』(1967.09) 森永製菓(株)は主要商品森永ミルクキャラメルの原料である練乳を自社製造するため、愛国煉乳を買収し1917年(大6)日本煉乳を創立。1920年(大9)森永製菓に合併しその畜産部となるが、1927年(昭2)には分離し森永煉乳を設立。1941年(昭16)に森永乳業と改称するが、翌年再び森永製菓に合併。森永製菓は1943年(昭18)森永食糧工業と改称、1949年(昭24)同社の乳業部が分離独立して現在の森永乳業が設立された。日本煉乳創立からの50年史は社長自ら執筆の創業篇に始まり、パイオニア篇、販売篇、酪農篇、幾山河(回想記、MF事件被災児法要含む)、現況、年表という構成。本文中に多くの図表を取り入れ、ジャーナリストの編集により10ヶ月で完成した。
雪印乳業(株) 食品 『雪印乳業沿革史』(1985.04)
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