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会社名 業種 社史タイトル(出版年) 会社沿革と社史メモ
内外綿(株) 繊維 『内外綿株式会社五十年史』(1937.09) 紡績工業の興隆をみた大阪の棉花問屋秋葉新三郎、渋谷庄三らは、取引の近代化を図るため1887年(明20)内外綿会社を興す。中国・インドから棉を輸入し、国内及び上海に紡績工場を作り業容を拡大する。支配人渋谷正十郎は1893年(明26)来日したタタ商会のJ.N.タタ(Jamsetji Nusserwanji Tata, 1839-1904)を、紡績聯合会の渋沢栄一に紹介している。1902年(明35)にはN.D.タタが内外綿の監査役就任。50年史は沿革と現況からなり、商標やグラフは鮮明なカラー印刷。[第二次大戦により資産の大半を失うが、1948年(昭23)に新内外綿として新たに発足]
内国通運(株) 陸運 『内国通運株式会社発達史』(1918.10) 江戸時代より陸上運輸は飛脚問屋が担っていた。明治政府が飛脚問屋の仕事であった郵便事業を国営化するかわりに、荷物の運送業を飛脚問屋にまかせるという裁断をし、1872年(明5)定飛脚問屋により陸運元会社が設立される。陸運元会社は街道各駅の陸運会社の元締めとなり、陸上運輸の便益を図った。1875年(明8)政策により各駅の陸運会社は解散し、陸運元会社は内国通運会社と改称して全国の陸運輸送を扱う。鉄道貨物や汽船運行業にも進出し、1893年(明26)商法改正で株式会社となる。当社史は江戸定飛脚問屋時代、陸運元会社時代、内国通運会社時代、内国通運株式会社時代の区分で沿革を記述。[1928年(昭3)合同により国際通運(株)となる(現・日本通運)]
長岡商工会議所 経済団体 『長岡商工人百年の軌跡 : 不死鳥のまちを支えた商工人名録』(2011.09) 越後国の中心に位置し古来から商工業の発達した長岡は、戊辰戦争により焦土と化す。長岡の商工人は藩士らと協同して復興を計り、諸産業を勃興させた。1905年(明治38)には長岡商業会議所が設立され、産業開発と地域振興に大きな役割を果たす。1927年(昭和2)の法改正により長岡商工会議所と改称。第二次大戦で長岡は再び戦火に見舞われるが、市政や商工会議所活動等に参加する市民の力により戦後復興を果たす。2004年(平成16)に発生した新潟県中越地震においても、商工会議所は復興の主導的役割を担い、翌年100周年を迎える。本書は長岡商工会議所創立100周年記念誌としてまとめられた、長岡商工人の奮闘の軌跡。本文6章と資料編からなり、執筆は長岡郷土史研究会の有志。第1章は古代から現代までの長岡商工人らの足跡を描いたもので、本書の約半分を占める。各節の末尾には各時代に活躍した人物の情報を写真付で掲載。第2章は各時代に行われた商工会の40近いプロジェクトについて、概要を項目ごとに紹介。会議所を支えた歴代専務理事についても業績をまとめている。第3章は金物卸業から酒造業まで営々と継続している長岡の産業25を取り上げ、各業界代表者の証言を写真と共に記録したもの。第4章は先駆的でユニークな活動を展開した長岡商工人24人を取り上げ、その事績を写真付で紹介している。第5章は現在活躍中で長岡に縁のある23人へのインタビュー。第6章は歴代会頭・副会頭40名の人物像と、現職役員・議員の紹介。資料編には設立経緯などの資料の他、2009年(平成21)の渋沢栄一らをとりあげたシンポジウム「長岡と近代日本社会のリーダーたち」の記録も11ページにわたり収載されている。
中北薬品(株) 医薬品 『中北薬品二百五十年史』(1977.11) 名古屋伝馬町の油屋の2代井筒屋(中北)伊助(1722-1807)は薬種問屋で修業し、1747年(延享4)薬種業を兼業。1793年(寛政5)には薬業者の多い京町に進出して薬種専業となる。井筒屋は栄枯盛衰を経て明治期に洋薬の取り扱いを始め、1877年(明10)屋号を中北商店と改める。業界の進歩と近代化に合わせ、1914年(大3)合名会社となる。1944年(昭19)製薬部門を分離して中北製薬(株)を設立するが、戦後1950年(昭25)同社を合併し中北薬品(株)と改組改称。医療機器等の販売にも進出し総合医療産業を目指して発展する。中北家文書と社内資料から編纂した250年史は井筒屋伊助時代、中北商店時代、合名会社時代、中北薬品時代という区分で沿革を記述。各時代の薬業界の状況を、多くの史資料を使って描き出している。
(株)長崎新聞社 サービス業 『激動を伝えて一世紀 : 長崎新聞社史』(2001.09)
(株)中村塗装店 建設 『株式会社中村塗装店120年のあゆみ』(1990.03) 成田出身の中村八十吉(1846-1912)は徳川家御用漆師に弟子入りし、1870年(明3)独立。工部省鉄道寮で洋式塗装技術を習得、日本最初の新橋横浜間の汽車塗装を行う。辰野金吾、横河民輔らに学び、田中製造所(現東芝)の製品塗装、東大赤門・日本銀行・旧三井本社・帝国劇場・東京電灯発電所などの塗装を手掛ける。満州にも進出し、満州鉄道や日本人社宅の塗装も行う。1946年(昭21)商号を中村塗装店と定め、塗装業界の発展にも貢献する。120年史は沿革と現況を斬新な編集でまとめている。表紙は朱色に金文字の鮮やかな装丁。
名古屋商工会議所 経済団体 『名古屋商工会議所130年のあゆみ : since 1881おかげさまで130周年』(2011.11)
(株)ナブコ その他輸送機器 『ナブコ70年史 : 1925-1996』(1997.10) 鉄道省の斡旋、神戸製鋼所・発動機製造・東京瓦斯電気事業の3社で設立。鉄道車両のエアブレーキを生産。駅のホームの自動ドア、義足義手なども作っている。
(株)名村造船所 造船 『造船55年』(1967.04)
南海鉄道(株) 鉄道・バス 『南海鉄道発達史』(1938.09) 大阪財界の藤田伝三郎(ふじた・でんざぶろう、1841-1912)らは大阪難波から堺までの鉄道敷設を目的に、1884年(明17)大阪堺間鉄道会社(後に阪堺鉄道)を設立。一方和歌山に1889年(明22)創業の南海鉄道は、阪堺鉄道を1898年(明31)合併。大阪和歌山間や高野山への鉄道網を整備し、バス事業や電気事業にも進出する。当該社史は沿革、事業の組織、資本及建設費、運輸、線路及停車場、車輛、土地建物経営、電気、という章立てで創立からの歩みと現況を詳述。車輛や沿線等の写真・図表を数多く掲載している。[1944年(昭19)関西急行鉄道と合併し近畿日本鉄道となる。1947年(昭22)南海電気鉄道に旧南海鉄道の鉄軌道事業を譲渡]
(株)南都銀行 銀行 『南都銀行五十年史』(1985.06) 奈良県では1879年(明12)郡山郡の士族らの発起で第六十八国立銀行が設立。高市郡八木町の地元有力者は1894年(明27)八木銀行を設立。吉野郡の素封家らは1895年(明28)吉野銀行を設立。大和木綿産地の御所(ごせ)地方商工業者は1896年(明29)御所銀行を設立。六十八、八木、吉野の3行はそれぞれ近隣の銀行を合同し業容を拡大。政府の銀行統制政策により、1934年(昭9)御所銀行を加えた4行が合併して県内唯一の普通銀行である南都銀行が設立された。50年史は創立前史、前身銀行史、南都銀行史からなる本編と資料編から構成され、前身銀行史では前身4行と関係銀行について解説。南都銀行史では設立からの50年を時代ごとの7章に分け詳述。資料編では南都銀行設立と結びつかなかった奈良県所在銀行の略史も掲載している。[渋沢栄一は第六十八国立銀行の設立を指導]
(株)新潟鉄工所 鉄鋼業 『新潟鉄工所四十年史』(1934.06) 1888年(明21)の日本石油創立以来、北越地方は石油事業が盛況を呈していた。日本石油は米国からの輸入機械で鑿井に成功し、必要な機械製作のため自ら鉄工所設置を計画。1895年(明28)新潟鉄工所が創業、翌年営業を開始する。基礎を確立し事業が拡張したのを機に1908年(明43)日本石油から分離独立し、(株)新潟鉄工所となる。1917年(大6)に本社を東京へ移転し、石油機械の他輸送用機械や工作機械の製作で発展する。創業からの40年史は、沿革、歴代社長小伝、主要製品発達史等からなり、多くの製品写真や図面を掲載している。[2001年(平13)会社更生法を申請し、2003年(平15)設立の新潟原動機(株)と新潟トランシス(株)へ営業譲渡して解散]
(株)新潟鉄工所 鉄鋼業 『新潟鉄工所100年史』(1996.03)
(株)ニコン 精密機器 『光とミクロと共に : ニコン75年史. [本編]』(1993.06) 日露戦争直後から測遠機、測距儀などの光学機械の国産化が求められ、各社で開発が進む。潜水艦製造を要請された三菱合資会社の岩崎小弥太は、東京計器(現トキメック)の光学計器部と岩城硝子の探照灯反射鏡部門を分離して1917年日本光学工業(株)を設立。戦後は民需に転換し、1988年(株)ニコンと社名変更。映像・情報、産業機器、健康・医療の3事業分野で活動を展開。別冊資料編あり。
(株)ニコン 精密機器 『光とミクロと共に : ニコン75年史. 資料集』(1993.06) 『光とミクロと共に : ニコン75年史. 資料集』(社史ID:06970)の資料編
西川産業(株) 小売業 『西川400年史』(1966.03)
西日本重工業(株)長崎造船所 造船 『三菱長崎造船所史. 続篇』(1951.12)
西日本鉄道(株) 鉄道・バス 『西日本鉄道百年史』(2008.12) 明治以降鉱工業の発達した北九州では鉄道網も整備されつつあった。松方幸次郎(まつかた・こうじろう、1866-1950)ら関西財界人は協働して1908年(明41)九州電気軌道を設立。1911年(明44)門司-黒崎間を開業し、電力や沿線開発事業を進める。1942年(昭17)戦時下の事業統合により、九州鉄道、福博電車、筑前参宮鉄道、博多湾鉄道汽船を合併し西日本鉄道が成立。更に県下47バス事業者も統合し、福岡県内の陸上交通全般を担う。戦後は航空貨物やレジャー・サービス等の新事業にも進出し発展。100年史は研究者とジャーナリストの執筆で歴史編、現況・未来編、資料編からなり、索引付。本文中に写真を多数掲載している。ダイジェスト版の『にしてつ100年の歩み』を同時に刊行。
西日本鉄道(株) 鉄道・バス 『にしてつ100年の歩み : 西日本鉄道百年史ダイジェスト版』(2008.12) 『西日本鉄道百年史』(社史ID:12100)のダイジェスト版
日亜製鋼(株) 鉄鋼業 『日亜製鋼五十年史』(1960.06)
日塩(株) 倉庫・運輸関連 『日塩五十年史』(1999.12)
日動火災海上保険(株) 保険 『日動火災海上保険株式会社四十年史』(1954.01)
ニチバン(株) 化学工業 『ニチバン80年史』(1999.09) 1895年(明28)歌橋又三郎(1863-1937)は東京日本橋に薬局歌橋輔仁堂を創立し、チェコのF.J.ピック博士(1834-1909)発明のピック氏硬膏製造法を完成させた。長男の歌橋憲一(うたはし・けんいち、1889-1977)はピック氏硬膏の一貫生産を目指し、輔仁堂から分立して1918年(大7)歌橋製薬所を創立、絆創膏製造を開始する。1934年(昭9)株式会社に改組。1944年(昭19)日絆工業、1948年(昭23)日絆薬品工業と改称。セロテープ(登録商標)を進駐軍へ納入し業績を伸ばす。1961年(昭36)ニチバンと改称、企業体質改善を図り新製品開発を進める。80年史は製品史に重点を置いた構成で、序章でピック氏軟膏を扱い、4章までは既刊の50年史を元に編集。5~8章で最近30年を詳述、巻末に社員全員の顔写真を6頁にわたり掲載している。
(株)日貿信 その他金融業 『二十年の歩み』(1979.02)
ニチボー(株) 繊維 『ニチボー75年史』(1966.02) 1889年創立の尼崎紡績会社は1918年大日本紡績(株)と改称、絹・羊毛・人絹生産にも進出、中国にも工場を設立する。1940年以降企業合同が促進され、多くの同業者を合併。戦後すぐに工場再開、生産開始し再建を進める。1964年には創立75周年を期にニチボー(株)と改称、同年の東京オリンピックでは貝塚工場のバレーボールチームが金メダルを獲得。75年史は時代ごとの沿革と資料編からなり、索引付。[1969年日本レイヨンを合併しユニチカ(株)と社名変更][ユニチカ(株)沿革 http://www.unitika.co.jp/company/history.html]
ニチメン(株) 繊維 『ニチメン100年 : 1892-1992』(1994.02) 1892年(明25)大阪に設立の日本綿花(株)は棉花輸入から出発して取扱品目を拡大し、1943年(昭18)日綿実業(株)と改称。戦争で海外取引網を全て失うが、戦後は海外各地の取引網を再構築し総合商社として発展。1982年(昭57)ニチメン(株)と改称。100年史は時代順に各時代の代表的部門に焦点を当てて書き起こした「通史」と、職能部門、営業部門、国内支店、海外支店をまとめた「部門史」からなる。支店の部門では国内は支店ごとに、海外は地域ごと国ごとに沿革と取扱い品目等について記載している。[2004年(平16)日商岩井と合併し双日(株)となる]
日綿実業(株) 繊維 『日綿70年史』(1962.11) 政府と紡績業界は1889年(明22)インドに調査団派遣、インド綿花の高品質を確認し輸入が拡大する。外務書記官として調査に参加した佐野常樹は、外国商に頼っていた綿花輸入の国内機関として、関西の綿花商らと共に1892年(明25)大阪に日本綿花を設立。中国・米国からも綿花輸入を開始、海外支店を設け取扱い品目が増加、1943年(昭18)日綿実業と改称。同年刊行の50年史を全面的に書き改め、最近20年の歩みと現況を追加して70年史としている。索引付。[1982年(昭57)ニチメンと改称、2004年(平16)日商岩井と合併し双日となる]
日魯漁業(株) 水産 『日魯漁業経営史. 第1巻』(1971.12)
(株)日刊工業新聞社 サービス業 『日刊工業新聞二十年史』(1965.09)
(株)日刊工業新聞社 サービス業 『日刊工業新聞七十年史』(1985.09)
日揮(株) 建設 『日揮五十年史』(1979.03) 第一次大戦後日本では内燃機関や自動車の普及で揮発油(ガソリン)需要が増大。揮発油や灯油製造等を目的に1928年(昭3)設立の日本揮発油(株)は、重油からの揮発油製造法の特許を米UOP社から取得。ところが製油所建設計画は反対運動や資金の問題で断念、特許と技術の提供に活路を見出す。終戦後は1952年(昭27)UOP社との契約を更改。石油消費の増大に伴い石油プラント技術の基盤も確立し、1960年(昭35)以降は海外にも進出。1976年(昭51)総合エンジニアリング会社としての成長を踏まえ日揮(株)と社名変更。50年史は沿革編と部門編からなり、巻末に資料付。沿革編は創業からの歩みを7章に分けて記述し、創業者実吉雅郎(さねよし・まさお、1893-1967)の遺志と(財)実吉奨学会も紹介している。
日揮(株) 建設 『激動の20世紀を超えて : the 75-year history of JGC Corporation』(2004.08)
日機装(株) 機械 『日機装20年史』(1973.10)
日機装(株) 機械 『日機装40年史』(1995.05)
日機装(株) 機械 『日機装40年史. 別巻 座談集語り継ぐ技術と心』(1995.05) 『日機装40年史』(社史ID:05560)の別巻
(株)日建設計 建設 『日建設計の歴史 : 1900-1980』(1980.07)
(株)日建設計 建設 『日建設計の歴史 : 1900-1990』(1990.07)
(株)日建設計 建設 『北浜五丁目十三番地まで : 日建設計の系譜』(1991.06) 大阪の住友家は1900年(明33)本店に臨時建築部を創設し、本店仮建物や須磨別邸等を建築。さらに大阪の発展に寄与するため中之島に図書館を建設し、図書購入基金と共に1904年(明37)大阪府へ寄贈する。昭和初期の不況で建築部門が縮小されると、建築技師出身の長谷部鋭吉(はせべ・えいきち、1885-1960)と竹腰健造(たけこし・けんぞう、1888-1981)は長谷部・竹腰建築事務所を起こして1933年(昭8)独立。戦時中1944年(昭19)住友土地工務に合併し、戦後の財閥解体で1945年(昭20)日本建設産業と改名。1950年(昭25)分離独立し日建設計工務として新発足する。社史の書名は日建設計工務の所在地で、役員を務めた著者が臨時建築部創設から日建設計工務設立までの50年の歩みを物語風に記述している。[1970年(昭45)日建設計と改称。日建設計工務設立以降の歩みをまとめた『北浜五丁目十三番地から』を1999年(平11)に出版。]
日興証券(株) 証券 『五十年史. [本編]』(1970.09)
日興証券(株) 証券 『五十年史. [資料編]』(1970.09) 『五十年史. [本編]』(社史ID:10200)の資料編
日産化学工業(株) 化学工業 『八十年史』(1969.05) 1887年創立の東京人造肥料会社(後大日本人造肥料(株))は1923年、関東酸曹、日本化学肥料と合併。1937年日産グループに参加し、日産化学工業(株)となる。1943年日本鉱業(株)と合併するが2年で分離、1945年日本油脂と合併して再び日産化学工業(株)となる。戦後は経営多角化し、石油化学工業へも進出。80年史は第1部現況、第2部通史、第3部部門史、第4部資料からなる。産業史の意味合いも兼ね、執筆は(社)化学経済研究所に委託。
日産化学工業(株) 化学工業 『百二十年史』(2007.05) 1887(明治20)年、渋沢栄一、高峰譲吉(たかみね・じょうきち、1854-1922)らにより、日本初の人造肥料(化学肥料)製造会社として東京人造肥料会社の社名で創業。1893(明治26)年、株式会社となる。1910(明治43)年、大日本人造肥料株式会社に社名変更。1937(昭和12)年には日本産業株式会社[日産コンツェルン]傘下となり、日産化学工業株式会社に社名変更。同グループ内での吸収・再編を経て、1945(昭和20)年に改めて日産化学工業株式会社として発足。本社史は、創業から120周年を記念して制作されたもの。主に、創業からの歴史を振り返る「経営編」、主要製品について記した「製品編」および「資料編」の3編で構成。題字は、創業者渋沢栄一の曾孫である渋沢雅英が揮毫している。
日産火災海上保険(株) 保険 『五十年史』(1961.05) 海上、火災、生命保険に続き、身体の損傷に対する傷害保険の重要性を研究した粟津清亮(あわつ・きよすけ、1871-1959)は、渋沢栄一らの援助を仰ぎ1911年(明44)日本傷害保険を設立。第一次大戦後は火災・海上保険も兼営、1922年(大11)中央火災傷害保険と改称し経営を強固にする。1937年(昭12)日産コンツェルンの傘下に入り日産火災海上保険と改称し、業績を拡大。戦後も経済復興と共に損害保険事業を発展させる。50年史は損保事業の生成発展を詳述した沿革編と、各支店小史も含む資料編からなる。[2002年(平14)安田火災海上保険と合併し、損害保険ジャパン(通称・損保ジャパン)となる]
日産火災海上保険(株) 保険 『飛翔への軌跡 : 日産火災80年史. 本史』(1991.11)
日産火災海上保険(株) 保険 『飛翔への軌跡 : 日産火災80年史. 資料』(1991.11) 『飛翔への軌跡 : 日産火災80年史. 本史』(社史ID:10730)の資料編
日産自動車(株) 自動車・自動車部品 『21世紀への道 : 日産自動車50年史』(1983.12) 1911年(明治44)設立の快進社自働車工場は1914年(大正3)小型乗用車のDAT自動車を完成、後にダット自動車製造と改称。一方で鮎川義介(あいかわ・よしすけ、1880-1967)が設立した戸畑鋳物は1928年(昭和3)頃から自動車部品製造を開始。自動車工業の将来性に着目、国産車の製造をめざし、1931年(昭和6)ダット自動車製造を買収。石川島自動車製作所との合併を経て1933年(昭和8)自動車製造(株)設立、鮎川が初代社長となる。彼が創設した持株会社日本産業の傘下にはいり、1934年(昭和9)日産自動車(株)と改称。50年史は創業からの通年史で写真も多くとりいれた読みやすい体裁。
日産自動車(株) 自動車・自動車部品 『日産自動車社史 : 1974~1983』(1985.04) 日産自動車(株)がこれまでに刊行した「30年史:1933-1963」「社史:1964-1973」「50年史:1933-1983」に続き、1974-1983年の事項をまとめたもの。第1次、第2次石油危機にどのように対応したかを、部門ごとの視点で記述。
日商(株) 商社 『日商四十年の歩み』(1968.09) 神戸の鈴木商店は大正期に金子直吉の采配で大商社に発展するが、昭和金融恐慌で破綻。直系の日本商業に営業譲渡し、高畑誠一ら幹部社員は1928年日商(株)設立、難関を超え発展する。戦時下製造部門へ進出し1943年日商産業(株)と改称するが、終戦後1949年日商(株)へ復帰。総合商社として業績を伸ばし、1968年岩井産業(株)と合併、日商岩井(株)となる。40年史は鈴木商店の破綻をまとめた創立篇と、戦前篇、戦後篇、資料篇からなり、索引付。渋沢栄一は鈴木商店に第一銀行頭取として関わる。[2004年双日(株)となる]
日商(株)鉄鋼貿易部 商社 『Tetsubo : 日商鉄鋼貿易部のあゆみ』(1997.08) 日商(株)鉄鋼貿易課設立50年を記念し、元部員らが綴った記録をまとめたもの。1947年から1968年岩井産業と合併するまでを、戦後復興期と鉄鋼輸出揺籃期、鉄鋼輸出開拓期、鉄鋼輸出高度成長期、鉄鋼貿易部と受渡部門の4部構成で扱っている。
日清オイリオグループ(株) 食品 『日清オイリオグループ100年史』(2007.09) 満州の豊富な大豆を資源に1907年(明40)日清豆粕製造(株)が創立。肥料用の豆粕の副産物であった大豆油の製造販売が進み、1918年(大7)日清製油と改称。戦争を経て洋食志向の進展に伴いサラダ油の需要が伸びる。製品輸出と共に海外での製油事業へ進出し、新製品新事業の開拓も進める。国際競争力強化をめざして2002年(平14)リノール油脂(株)、ニッコー製油(株)と経営統合し持株会社日清オイリオグループ(株)を設立、その事業会社となる。100年史は事業別の10年構想を巻頭に掲げ、沿革を時代別に6章に分け記述。本文中に多くの図版を載せ、100周年目の商品群写真を末尾に掲載。
日新火災海上保険(株) 保険 『日新火災八十年のあゆみ』(1988.08)
日新火災海上保険(株) 保険 『日新火災海上保険株式会社百年史』(2008.07) 日清日露戦争後日本の海運は急速に発展。しかし保険会社は汽船保険は引き受けても、危険率の高い帆船保険は消極的であった。各地の帆船所有者らは協同して1908年(明41)東京に帝国帆船海上保険を設立。1910年(明43)東洋海上保険、1925年(大14)東洋海上火災保険と改称。戦時統制下1942年(昭17)に渋沢栄一らが創業に関わった東明火災海上保険を合併。翌年名古屋の福寿火災保険、大阪の豊国火災保険と合併し日新火災海上保険が誕生する。100年史は第1部が前身3社の創業、日新火災の誕生から1985年(昭60)まで、第2部が以降2008年(平20)まで、第3部が資料編で索引付。第1部は未刊の「日新火災80年史稿本」の要約。『日新火災八十年のあゆみ』(1988年刊)は80年史稿本とは別著者による普及版。
日清汽船(株) 海運 『日清汽船株式会社三十年史及追補』(1941.04) 中国の港湾はアヘン戦争以降19世紀末までに徐々に開放が進み、諸外国が進出していた。日本からは1896年(明29)上海に設立の大東新利洋行に続き、大阪商船会社揚子江航路、湖南汽船会社(渋沢栄一は発起人)、日本郵船会社揚子江航路が進出。4社の航路は外国汽船会社に対抗するため政府の勧誘により合併し、1907年(明40)日清汽船設立(栄一は創立委員、取締役)。第一次大戦を経て発展するが、1937年(昭12)の日華事変後の統制により、1939年(昭14)設立の東亜海運に全ての資産・業務を移譲し、日清汽船は持株会社として存続する。30年史は1-3編が創立から移譲までの歩み、4-9編に航路、船舶、資産、事務組織、営業設備、営業成績を記述。追補にあたる第10編「我社の特殊性」には、抗日運動の影響及び日華事変下の損害状況等を記載。
日清食品(株) 食品 『食足世平 : 日清食品社史』(1992.05) 台湾出身の安藤百福(あんどう・ももふく、1910-2007)は繊維業に携わり大阪へ進出。第二次大戦後の復興にはまず食事が大事と考え、食品加工・製塩などの事業を経て1948年(昭23)加工食品の輸出入・販売業の中交総社を設立。翌年サンシー殖産に改称、1958年(昭33)瞬間油熱乾燥法の即席袋めん(チキンラーメン)を開発し、「日々清らかに豊かな味をつくる」との願いから日清食品に商号変更する。1971年(昭46)カップめんを発売開始、事業を多角化し海外へも発展する。当該社史は7章の本文と資料からなり、創業前史で安藤の生い立ちと即席めん開発を記述。口絵にめん食の文化史や製品・工場写真を多数掲載。[2008年(平20)持株会社日清食品ホールディングス設立、新たに即席めん事業の日清食品(株)が誕生]
日新製鋼(株) 鉄鋼業 『日新製鋼新発足十年史』(1969.12)
日清製粉(株) 食品 『日清製粉株式会社史』(1955.12) 高等商業学校出身の正田貞一郎(しょうだ・ていいちろう、1870-1961)は、麦の産地である郷里の群馬で1900年(明33)館林製粉を創立。製粉機械を輸入し原料を買い付け操業開始する。一方1907年(明40)横浜に創立の日清製粉は、日露戦後の不況を乗り切るため同年館林製粉に合併し、社名は地方色を排し日清製粉とした。大正期には東京湾埋立(株)の埋立地に鶴見工場を建設、貨物船を横付し輸入小麦を真空吸揚装置で工場へ搬入した。昭和期には海外への小麦粉輸出が本格化し、外地工場も経営。第二次大戦後は麦類の消費が増加し、小麦生産高は戦前より増加する。館林製粉創業から50年を期に編纂された社史は、第1篇に小麦と製粉業の沿革、第2-7篇に日清製粉の沿革、第8篇に現況をおき、付録に関係会社略史等を記載。[2001年(平13)持株会社の(株)日清製粉グループ本社を設立、その事業会社となる]
日清製粉(株) 食品 『日清製粉株式会社七十年史』(1970.08)
日清製粉(株) 食品 『日清製粉この十年の歩み』(1980.05)
日清製粉(株) 食品 『チャレンジこの10年 : 日清製粉創業90周年記念史』(1990.05)
日清製油(株) 食品 『日清製油六十年史』(1969.11) 大倉組創始者の大倉喜八郎(おおくら・きはちろう、1837-1928)は日露戦争後、満蒙の豊富な農産資源に着目し、新事業の開発を企図。一方横浜の肥料商松下久治郎(1867-1925)は満州の大豆油粕に注目していた。二人は共同して1907年(明40)日清豆粕製造(株)を創立。大連に工場を建設して操業開始。第一次大戦後に副産物であった大豆油の製造販売が進み、1918年(大7)日清製油と改称、松下久治郎商店を合併。戦時統制、戦後の接収期を経て国内工場を再建し業容を拡大する。60年史は社内の執筆で沿革を時代ごとの8章にまとめ、巻末に資料編と索引付。資料編には「日清サラダ油」の沿革も含む。[2002年(平14)持株会社日清オイリオグループを設立]
日清紡績(株) 繊維 『日清紡績六十年史』(1969.12) 日露戦争後の好景気の中、東京日本橋の綿糸布商日比谷平左衛門・岩崎清七・福沢桃介・安部幸兵衛らは紡績会社設立を計画、1907年日清紡績(株)の創立総会が開かれる。後発の紡績企業であったが優れた経営により急速に発展。繊維以外の業種にも多角化をはかり業績を伸ばす。60年史には合併した多くの会社の略史も含む。土屋喬雄監修。[日清紡績(株)沿革 http://www.nisshinbo.co.jp/profile/history.html]
日鉄住金建材(株) 鉄鋼業 『限界を超えて : 日鉄住金建材株式会社史』(2012.03)
日鉄住金建材(株) 鉄鋼業 『限界を超えて : 東日本大震災仙台製造所被災状況と復興 : 日鉄住金建材株式会社史』(2012.03) 渋沢栄一が関わった富士製綱(株)をルーツの一つにもつ日鉄住金建材(株)の社史『限界を超えて』(2012)の別冊。建材メーカーである同社の仙台製造所は仙台港に面しており、2011年(平成23)3月の東日本大震災の津波により壊滅的な被害を受けた。それにより編纂途中の社史の発行を延期することになり、被災状況と同年11月ごろまでの復旧・復興状況を、作成中の社史別冊として翌年3月11日に発行した。これは同時に社内限定で発行された『製造所の歴史』別冊の「東日本大震災仙台製造所被災状況と復興の記録」を、2/3に縮減編集したもの。本書は序章と本文12章、結びからなり、序章と第1-4章では地震発生から3月19日までの被災状況を、写真や図版も入れて記述。続く第5-8章は被災直後から5月末までの復旧に向けた取組みや具体的作業をまとめたもの。更に第9-11章には9月1日の操業再開に向けた動きを記述し、第12章で被災の経営への影響をまとめ、復旧工事の歩みの表と復旧状況の写真を載せている。そして「結び」に、復旧への期待を述べた11月の社長訓示を再掲。被災後直ちに復旧への活動を開始し、困難の中で創業を再開した同社の貴重な記録となっている。
日東商船(株) 海運 『日東商船株式会社社史』(1966.05)
日東製粉(株) 食品 『日東製粉株式会社65年史』(1980.05)
日東紡績(株) 繊維 『回顧参拾年』(1953.04) 1878年片倉兼太郎ら天竜川畔に製糸場創設、1895年片倉組が組織される。一方渋沢栄一らが1898年創立した郡山絹糸紡績(株)は経営難のため1915年紡績部を片倉組へ買却。また1918年設立の福島製練製糸(株)は後に福島紡織(株)となり、不況期の1921年片倉の傘下に入る。片倉組から設立された片倉製糸紡績(株)は、製糸と紡績では経営方法等が異なるため紡績業を独立させ、1923年日東紡績(株)を設立。30年史は1953年までのあゆみを写真を多用して簡潔にまとめている。表紙には製品の化繊織物を使用。
(株)ニッピ その他製造業 『ニッピ八十五年史. 上巻』(1992.04) 古代より我が国の皮革業は発達していたが、明治初期西欧の製革法が導入され、軍納品を中心に皮革製品の製造が増大。1907年日露戦争後の不況時に(株)桜組、(名)大倉組皮革製造所、東京製皮(資)が合併し、日本皮革(株)創立、会長大倉喜八郎、相談役渋沢栄一。戦後は経営多角化し、1974年(株)ニッピと社名変更。85年史の上巻は土屋喬雄監修1957年発行「日本皮革株式会社五十年史」の復刻で、我が国皮革産業の発達史から書き起こす。下巻は以降1991年までの35年史で、関連会社小史、資料編、用語解説付。
(株)ニッピ その他製造業 『ニッピ八十五年史. 下巻』(1992.04) 『ニッピ八十五年史. 上巻』(社史ID:07320)の下巻
(株)ニッピ その他製造業 『ニッピ110年史』(2017.09) 1907(明治40)年、株式会社桜組、合名会社大倉組皮革製造所、東京製皮合資会社が合併し、日本皮革株式会社を設立。1974(昭和49)年、株式会社ニッピへ社名変更。2007(平成19)年、皮革製造事業を終了し、ゼラチン、コラーゲン・ケーシング事業を中心とした企業となる。本社史は『ニッピ八十五年史』から四半世紀を経て制作されたもの。前社史以降の期間は、創業事業の皮革製造の終了など同社にとって大きな転換期となった。資料編には同社事業に関わる用語解説付き。『110年史』と『八十五年史』を収録したDVD-ROMを付属。
日本アイ・ビー・エム(株) 電気機器 『日本アイ・ビー・エム50年史』(1988.10) 横須賀生まれの水品浩(みずしな・こう、1895-1978)は海外生活に憧れ、1915年(大4)陶器貿易の森村組に就職。1920年(大9)森村ブラザース商会の駐在員として米国に派遣され経営学を習得。1923年(大12)日本陶器の事務処理にIBMの統計機械を提案し、水品がIBMの機械の実習生となることで代理店契約することが出来た。1927年(昭2)IBMの代理店が森村商事から黒沢商店に代わり、水品も黒沢商店に移籍。新製品IBM405が開発されると日本でも相次いで採用され、IBMは日本に現地法人を設立することを決定。第一銀行常務渋沢敬三(しぶさわ・けいぞう、1896-1963)の協力を得、1937年(昭12)日本ワットソン統計会計機械を設立、社長は渋沢智雄(しぶさわ・ともお、1901-1947)。1950年(昭25)日本インターナショナル・ビジネス・マシーンスに、1959年(昭34)日本アイ・ビー・エムに社名変更。50年史は研究者の執筆で、代理店時代を創立前史とし、会社発足からコンピューターの大衆化までを平易に記述、索引付。別冊として『コンピューター発達史』『情報処理産業年表』がある。
日本アイ・ビー・エム(株) 電気機器 『コンピューター発達史 : IBMを中心にして』(1988.10) 米国IBM社が1957年から刊行している"IBM Journal of Research and Development"誌は、コンピューター・サイエンス全般に渡る広範囲な論文を収録しており、その発刊25周年を記念した特集号(25巻5号, 1981年9月)は、コンピューターの開発・製造の歴史をCPUのみならず素子、アーキテクチャー、ソフトウェア、周辺機器にいたるまで詳細に記述している。本書はこれを取捨選択、翻訳し、1986年(昭61)までに発表された最新機器の情報も加え、コンピューター発達史として編集したもの。『日本アイ・ビー・エム50年史』の別冊として刊行された。索引付。
日本アイ・ビー・エム(株) 電気機器 『情報処理産業年表』(1988.10) 日本における情報産業の歴史を、類書や各社社史、新聞記事などからまとめたもので、『日本アイ・ビー・エム50年史』の別冊として刊行された。年表編と資料編から構成され、1986年(昭61)までのコンピューター・メーカーによる技術開発、ユーザーのコンピューター導入・利用の具体的あり方、政府等の関連する施策、海外における情報関連産業の動向などを収録。年表の各項目には原資料の資料コードが付されている。資料編には基本的な統計類と法律や政府審議会答申などの文書、および564の資料コードと原資料一覧を掲載。巻末に記事の事項索引と解説索引付。
日本板硝子(株) 窯業 『日本板硝子株式会社五十年史』(1968.11) 大阪の商社勤務の杉田与三郎(すぎた・よさぶろう、1885-1966)は画期的発明のコルバーン式板ガラス製造販売を企図し、米国リビー社の特許譲渡を受け1918年(大7)日米板硝子(株)を大阪に設立。翌年九州に工場を建設し生産販売開始するが、業績不振で1922年(大11)住友(資)の出資を受け再建する。1931年(昭6)国産品愛用奨励を受けて日本板硝子(株)と改称。戦争の混乱を乗り越え戦後は経営基盤を強化し、新製法のフロート式板ガラス製造へ進出。50年史は冒頭に「ガラスの生いたち」としてガラスの起源と日本での製造史を簡潔に述べ、渋沢栄一の関わった品川硝子会社、磐城硝子会社にも触れる。創業からの歩みは時代順に10の章立てで詳述している。
日本カーバイド工業(株) 化学工業 『日本カーバイド工業株式会社二十年史』(1958.02)
日本海員掖済会 海運 『日本海員掖済会五十年史』(1929.05)
日本碍子(株) 窯業 『日本碍子株式会社三十年史』(1949.05) 明治後期に日本の電力界は高電圧長距離送電時代に入り、高圧碍子の需要が高まる。1904年(明37)設立の日本陶器は碍子製造に着手し、1909年(明42)に初出荷。社長の大倉和親(おおくら・かずちか、1875-1955)は性能向上をめざし高圧碍子の研究を重ね、1919年(大8)碍子製造業を分離して日本碍子を名古屋に設立。電力需給の伸長と共に業績を拡大する。第二次大戦後は進駐軍設営用碍子を始め受注が増加し、輸出も再開して復興を果たす。30年史は沿革と現況からなり、付録として年表、功労者略伝、特許・実用新案、登録商標等を掲載。本文中に多くの写真・図表を取り入れている。[1986年(昭61)社名表記を「日本ガイシ」に変更]
日本ガイシ(株) 窯業 『日本ガイシ75年史』(1995.03)
日本開発銀行 銀行 『日本開発銀行10年史』(1963.02)
日本開発銀行 銀行 『日本開発銀行二十五年史』(1976.04)
日本開発銀行 銀行 『日本開発銀行史』(2002.03) 戦後の経済復興期に設立、総合政策金融機関として産業の開発、環境・エネルギー対策、ベンチャービジネスから国民福祉まで対応。1999年に北海道東北開発公庫と統合の上、日本政策投資銀行となる。
日本火災海上保険(株) 保険 『日本火災海上保険株式会社70年史. 本編』(1964.04) 1889年大阪に日本生命が設立され、大阪財界人は損害保険事業にも着目。1892年田中市兵衛らの発起人は日本火災保険(株)を設立。1896年日本酒造火災保険を合併。1912年根津嘉一郎らにより東京に設立された帝国火災保険(株)と1944年合併。一方海上保険業界では1896年大阪に浅野総一郎らを創立委員に日本海上保険(株)が設立。1944年経済統制下の業界整理統合により日本火災保険と合併し、日本火災海上保険(株)が誕生。70年史は土屋喬雄監修、千頁を超える大作で、別冊索引・年表付。
日本火災海上保険(株) 保険 『日本火災海上保険株式会社70年史. 年表索引』([1964]) 『日本火災海上保険株式会社70年史. 本編』(社史ID:10770)の年表索引
日本火災海上保険(株) 保険 『日本火災海上保険株式会社百年史』(1995.12) 百年史は全体を10章に分け、前半4章は時代ごとに前身の日本火災保険、日本海上保険、帝国火災保険の沿革を記述。第5章以下は1944年に日本火災海上保険となってからの復興と発展の歩みを述べる。執筆は外部に委託、索引付。
日本化成(株) 化学工業 『50年史』(1987.11)
日本楽器製造(株) その他製造業 『社史』(1977.07) 医療機械修理をしていた山葉寅楠(やまは・とらくす、1851-1916)は、小学校のオルガン修理をきっかけに1888年(明21)静岡県浜松で山葉風琴製造所を創業。1897年(明30)には日本楽器製造となり、オルガンやピアノを始め種々の楽器製造を手掛け、内外の博覧会で好評を得る。第一次大戦後の不況等で経営悪化した同社は1927年(昭2)住友から川上嘉市(かわかみ・かいち、1885-1964)を社長に迎え、急速に立ち直る。第二次界大戦後は経営多角化をはかり家具、住宅関連産業へも進出。ピアノも世界的評価を得る。社史は創業からの歩みを読みやすくまとめ、巻末に関係者の回顧を掲載。[1987年(昭62)創業100年を記念しヤマハと社名変更]
日本紙パルプ商事(株) パルプ・紙 『百三十年史』(1975.12) 1845年中井三平が京都で和紙商の越三商店を創業。明治初年に洋紙の製造が開始されるといち早くその取扱いを始め、1876年中井商店と改称、王子製紙と長年にわたり取引。1902年個人商店から合名会社に改組、その相談を受けた渋沢栄一は顧問に就任。1916年株式会社となる。戦後1963年に中井(株)となり、北興産業、北陸紙業、富士洋紙店と合併して1970年日本紙パルプ商事(株)が発足。社史は1975年までの歩みを編年体で記載している。
日本紙パルプ商事(株) パルプ・紙 『百五十年史』(1996.12) 1845年からの150年史で、1975年までの記述は「130年史」の要約。本史は5つの章に分けられ、1970年日本紙パルプ商事(株)として発足してからの歩みを詳述。巻末に資料編。
(株)日本勧業銀行 銀行 『日本勧業銀行創業十年志』(1907.08)
(株)日本勧業銀行 銀行 『日本勧業銀行創業二十年志』(1917.11) 1896(明治29)年、日本勧業銀行法公布。設立委員会による開業準備を経て、翌1897(明治30)年に特殊銀行として開業。主に農工業者や公共団体向けに低金利または無抵当で資金の貸付を行う。本社史は創業から1917(大正6)年までの20年間を記録したもの。三方金を施し、布張りの表紙には稲穂や楮、算盤などの文様を箔押しで配した豪華な装幀。本文は「沿革」「業務」に分けられ、巻末に役員肖像写真、定款などを掲載。創業から年数が浅いため、本文の大半は貸付や債券発行など業務の記録である。一部写真付きで貸付先の事業実例が掲載されており、当時どのような事業が行われていたのかを知る貴重な文献にもなっている。渋沢栄一は田尻稲次郎、添田寿一らとともに日本勧業銀行設立委員の一人に任命された。設立委員会は同行定款の審議、株主の募集、設立免許の稟請など設立に関する事務を行った。同行が開業すると栄一は株主となる。創業十周年、二十周年の記念祝賀会にも参加している。
(株)日本勧業銀行 銀行 『日本勧業銀行三十年志』(1927.12)
(株)日本勧業銀行 銀行 『日本勧業銀行四十年志』(1938.01) 明治維新以降短期金融機関は整備されていったが、不動産を抵当として事業資金を供給する長期金融機関の整備は、1896年日本勧業銀行法の可決から始まった。渋沢栄一らの設立委員が任命され、翌1897年日本勧業銀行が設立。40年史は以降1937年6月までの内容。沿革編は、農工銀行を合併した最近10年に重点を置いた記述。組織・管理編、営業編では現状を祥述。附録に「勧農両銀行合併史」「年表」「統計資料」を含む。
(株)日本勧業銀行 銀行 『日本勧業銀行法草案関係資料』(1951.03)
(株)日本勧業銀行 銀行 『明治初年不動産銀行・農業銀行関係資料』(1952.10)
(株)日本勧業銀行 銀行 『日本勧業銀行鑑定調査諸規定資料』(1953.01)
(株)日本勧業銀行 銀行 『日本勧業銀行史 : 特殊銀行時代』(1953.06) 1897年に創業した日本勧業銀行は、1950年「日本勧業銀行法等を廃止する法律」施工によって、53年に亘る特殊銀行としての幕を閉じ、新たに普通銀行として出発した。この特殊銀行時代の歴史をまとめたもの。章立ては、日本勧業銀行前史、農工業金融時代、不動産銀行化時代、勧農合併開始時代、不況救済金融時代、戦時特殊金融業務時代、預金銀行化時代。
(株)日本勧業銀行 銀行 『日本勧業銀行統計資料』(1953.11)
(株)日本勧業銀行 銀行 『日本勧業銀行六十年史』(1957.08) 1897年創業から1950年普通銀行に転換するまでは「略史」として巻末に述べ、本文は1950年から1957年3月までの内容。第1編長期・短期両金融兼営期、第2編普銀体制確立期、第3編現況からなる。
(株)日本勧業銀行 銀行 『日本勧業銀行七十年史』(1967.08) 1897年の創業から1967年までを編年体で記述。最近10年の歩みに2/3の頁を当てている。
(株)日本勧業銀行 銀行 『日本勧業銀行七十年史統計資料集』([1967.08]) 「日本勧業銀行七十年史」編集に当たって収集した経営統計および主要一般金融経済指標を収録したもの。1950年普通銀行に転換して以降の統計が主体。
(株)日本勧業銀行 銀行 『日本勧業銀行史追録 : 創立70周年から合併まで』(1976.07) 1897年の創業から1971年第一銀行と合併し第一勧業銀行となるまでの記述。1967年の70周年までは序章に記し、以降合併に至るまでの経緯を詳述している。
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