会社名"は" から始まる社史一覧 全26件中26件 1件〜26件目を表示
会社名 | 業種 | 社史タイトル(出版年) | 会社沿革と社史メモ |
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(株)博進社 | パルプ・紙 | 『紙業界五十年 : 創業四十周年記念』(1937.07) | 長岡出身の山本留次(やまもと・とめじ、1872-1852)は叔父大橋佐平(おおはし・さへい、1836-1901)の起こした博文館に創業時から勤務し支配人を務める。創立10年を機に大橋の勧めで独立し、1897年(明30)洋紙販売の博進堂を創業。1909年(明42)姉妹会社として文具製造販売の文運堂を設立。山本は翌年欧米紙業界を視察し、1911年(明44)博進堂を(株)博進社と改組、増資を行い事業を拡大する。創業40年を機にまとめた当該社史は、明治以降の日本の紙業界の歩みを19章にまとめ、博進社及び関係事業の沿革と山本留次の随想を付している。[1971年(昭46)大倉洋紙店と合併し、(株)大倉博進(現・新生紙パルプ商事(株))となる] |
白鶴酒造(株) | 食品 | 『白鶴二百三十年の歩み』(1977.10) | |
(株)博文館 | サービス業 | 『博文館五十年史』(1937.06) | 長岡出身の大橋佐平(おおはし・さへい、1836-1901)は教育・出版に携わった後上京し、1887年(明20)博文館を創業。雑誌『日本大家論集』を創刊して好評を博し、宗教・教育・実業関係の雑誌を次々発行。翌年息子の大橋新太郎(1863-1944)も上京し社業に参加、図書出版にも進出し頭角を現す。1890年(明23)取次販売の東京堂を創立。1895年(明28)雑誌『太陽』創刊、「懐中日記」の出版を開始。1897年(明30)専用印刷工場の博文館印刷所(現・共同印刷)と、洋紙店博進堂(現・新生紙パルプ商事)を創設。1902年(明35)大橋図書館(現・三康図書館)を開設。1918年(大7)博文館は株式会社に改組し発展する。50年史は役員の執筆で創業からの歩みを編年体で記述し、巻末に出版年表を付す。[1947年(昭22)廃業。継承する出版社として1949年(昭24)博友社、翌年博文館新社が創立している。東京堂は1964年(昭39)東京堂出版と東京堂書店に分離] |
(株)博報堂 | サービス業 | 『広告六十年』(1955.10) | |
(株)白洋舎 | サービス業 | 『白洋舎五十年史』(1955.03) | 五十嵐健治(いがらし・けんじ、1877-1972)は勤務していた三越呉服店から独立するにあたり、社会に必要とされながら人気のない洗濯業に取り組み、1906年(明39)東京日本橋に白洋舎を創業。出入り先の三越に得意客を紹介され、要望に応じて研究を重ね日本初のドライ・クリーニングを開始する。1920年(大9)会社組織に改組し全国に支店を広げる。戦時中の資材・人手不足の困難を乗り越え、戦後は進駐軍の洗濯を手始めに民需拡大によりめざましく発展する。50年史ではドライ・クリーニング研究開発当初の苦労から戦後の興隆期までの沿革を、多くの写真を交えながら記述。創業者が熱心なキリスト教信者であったため、社業とキリスト教との関わりについても触れている。 |
函館水電(株) | 電力 | 『創立貳拾週年記念帖』(1926.09) | |
函館船渠(株) | 造船 | 『函館船渠株式会社四十年史』(1937.06) | 明治維新後北海道でも西洋型船の製造が奨励され、1878年(明11)より函館の平田文右衛門らは船渠及び製鉄所設立を計画。長年の運動の結果渋沢栄一ら東京・大阪の有力実業家の援助を得、政府補助金の下附も受けて1896年(明29)函館船渠が設立された。初期の経営危機を栄一らの尽力で乗り越え、第一次大戦期を経て発展する。40史では会社設立までの経緯を詳述し、巻末には船渠建設工事中から開業当時、また工場内部などの写真を多数掲載している。[1951年(昭26)函館ドック、1984年(昭59)函館どつくに社名変更、2001年(平13)名村造船所と業務提携、2007年(平19)名村造船所の連結子会社となる] |
箱根温泉供給(株) | サービス業 | 『箱根温泉供給社史』(1982.09) | 渋沢栄一・益田孝(ますだ・たかし、1848-1938)らは1879年(明12)酪農のため仙石原に耕牧舎を設立。一方大涌谷の良質な温泉は1887年(明20)より宮内省が買収を進めていた。1928年(昭3)栄一らは耕牧舎の資産を引き継ぎ温泉付別荘分譲を行う仙石原地所を設立。次に温泉の集中管理のため、1930年(昭5)箱根温泉供給(株)を設立した。宮内省より広大な土地の提供を受け、箱根の土地開発と分譲地への温泉供給に多大な貢献を果たす。1941年(昭16)仙石原地所を合併。50年史は耕牧舎と仙石原地所の歩みを扱った前史、50年のあゆみ、現況、資料からなる。巻頭に会長を務めた渋沢秀雄(しぶさわ・ひでお、1892-1984)による絵と俳句を掲載。 |
(株)間組 | 建設 | 『間組百年史. 1889-1945』(1989.12) | 土佐藩士族の家に生まれた間猛馬は、明治初期に上京し鉄道土木の技術を身につけ、1889年門司で間組を創業。鉄道建設請負業として事業を拡大、朝鮮・満州へも進出しダム工事も手がける。1920年本店を東京へ移し、1931年(株)間組となる。百年史上巻は1945年までの内容で、渋沢栄一に縁のある日英水電(株)についても触れている。下巻(1990年刊)は戦後1989年までの内容で、ゼネコンとして国内外へ発展した歩みを記述。索引と別冊の写真編(1945-1989)付。[1992年社名の呼称をハザマに変更] |
(株)間組 | 建設 | 『間組百年史. 1945-1989』(1990.12) | 『間組百年史. 1889-1945』(社史ID:00820)の続編 |
(株)間組 | 建設 | 『間組百年史. 1945-1989 写真編』(1989.12) | 『間組百年史. 1945-1989』(社史ID:00830)の写真編 |
(株)橋本店 | 建設 | 『夢を追いかけて : 社史橋本店140年の軌跡』(2018.04) | 1878(明治11)年、大倉組商会社員であった橋本忠次郎(はしもと・ちゅうじろう、1856-1916)は、独立し仙台に橋本組を設立。全国での鉄道工事等の土木請負業、学校や病院、文化施設などの建築業等を行う。1910(明治43)年、株式合資会社橋本店に改組。また1916(大正5)年に株式会社に改組。のち数回の社名変更を経て、2008(平成20)年より再び株式会社橋本店となる。本社史は監修・執筆に外部専門家を招き制作。自社の歴史だけでなく、日本の近代史・地域史にも通じる一書となっている。5章立ての本史と4つの特集、資料編で構成される。巻頭に伊達家18代当主との記念鼎談あり。 |
(株)はせがわ | 小売業 | 『受け継ぐ心といのち 明日へ : 1929-2013』(2013.07) | |
長谷川香料(株) | 化学工業 | 『長谷川香料八十年史』(1985.05) | 薬種貿易の松沢商店で香料を扱っていた長谷川藤太郎(1877-1947)は、1903年(明36)独立して日本橋に香料店の長谷川藤太郎商店を創業。石鹸や化粧品、バニラ入り食品等が広まるにつれ香料の需要も伸びる。1948年(昭23)株式会社に改組。経営近代化を図り、1961年(昭36)香料製造販売の長谷川香料(株)を設立し業務一切を引継ぐ。川崎に続き深谷にも工場建設し成長する。80年史は1・2章に「古代の香料」「文明開化と香料」を置き、3章から13章に創業からの歩みを年代順に記述。各頁欄外に該当年の年表を記載している。 |
八馬汽船(株) | 海運 | 『100年の歩み』(1978.12) | 西宮の米穀商八馬商店の八馬兼介(はちうま・けんすけ、1839-1918)は、1878年(明11)初めて帆船を購入し、海運業に従事。阪神・東京間に酒・塩・石炭などの運行を行い、日清・日露戦及び第一次大戦での需要をバネに大きく飛躍する。戦後不況の中1925年(大14)個人経営から改組し八馬汽船(株)を設立。第二次大戦後は日本郵船との提携を深め、合理化や国際化を進めて発展する。100年史は草創期、戦前戦中編、戦後編という区分けの沿革と、会社の福利厚生・関係会社事項、所有船腹異動表等の附表からなる。口絵に社旗やファンネルマークの由来を記載。 |
(株)八十二銀行 | 銀行 | 『八十二銀行史』(1968.05) | 古来養蚕業が普及した長野県では明治期に生糸生産高が日本一に発展し、各地に製糸金融会社が興る。上田の名士らは1877年(明10)第十九国立銀行を設立、一方松代の士族らは1878年(明11)第六十三国立銀行を設立。1897年(明30)それぞれ私立の第十九銀行、六十三銀行となり、近隣銀行を合併しつつ製糸業発展と共に業績をのばす。両行は昭和恐慌克服のため1931年(昭6)合併し、八十二銀行を創立。行名は19+63=82から命名(既存の第八十二銀行後継の安田銀行は了解)。本社史は序編、本編、付編からなり、序編で明治初年から昭和恐慌までの、製糸業を中心とした長野県下の産業と金融機関の発展過程を記述。本編で八十二銀行創立後の業績推移と、県内産業が生糸から軍需産業、そして戦後の近代工業へ移行した過程を詳述し、合併諸銀行略史にも触れる。[渋沢栄一は第十九国立銀行の設立を指導] |
(株)服部紙店 | パルプ・紙 | 『社史』(1963.06) | 伊勢商人の服部家初代仁平治は江戸へ出て1659年(万治2)煙草屋を開業。3代八左衛門(?-1774)が紙商を始め、明治以降は洋紙販売も開始。1887年(明20)設立の富士製紙の販売店となり業績を上げる。経営拡充のため1901年(明34)合資会社服部紙店を設立し、1918年(大7)には株式会社に改組。1933年(昭8)富士製紙が王子製紙と合併し、服部紙店は王子製紙の代理店となる。終戦後は紙業界の復興と共に業容を拡大する。開業300年を記念して出版した社史は12章からなり、1-4章は紙の伝播、江戸の問屋、伊勢商人について触れる。5-8章は服部紙店の創業と発展を紙業界の中に位置づけて記述。9-12章は支店や福利厚生、服部家等についてまとめている。初版(1959)に300年記念行事等の写真を追加した増補版。[1974年(昭49)服部紙商事(株)と改称、2006年(平18)国際紙パルプ商事(株)と合併] |
(社)発明協会 | 経済団体 | 『発明協会70年史』(1974.12) | |
(社)発明協会 | 経済団体 | 『創造 : 私のひとこと』(1984.06) | |
パナソニック(株) | 電気機器 | 『パナソニック百年史』(2019.11) | |
パナソニック(株) | 電気機器 | 『パナソニック百年史 資料編』(2019.11) | |
早川運輸(株) | 海運 | 『早川運輸創業百十年史』(1996.11) | 横浜で創業、銅輸出の運送に従事するが、輸出不振と関東大震災で打撃を受ける。戦後は港湾運送事業、通関業、倉庫業、陸運事業を営む。1970年前後に渋沢倉庫を母体とする渋沢海運との合併の話が持ち上がったが、交渉不調で成立せず。1978年ころから海底ケーブルの荷役作業に進出、世界各地で活躍。 |
(株)播磨造船所 | 造船 | 『播磨50年史』(1960.11) | 兵庫県相生の村長唐端清太郎を中心に相生の繁栄を図って出資者が募られ、1907年播磨船渠(株)が設立。第一次大戦後1916年に鈴木商店が買収、1932年帝国汽船(株)に合併、更に1921年には(株)神戸製鋼所に合併される。1929年に同社から独立し、(株)播磨造船所設立。戦後編集された40年史の原稿を元に1958年「50年略史」が刊行され、1960年11月にこの「50年史」を刊行。[同年12月石川島重工業と合併し、石川島播磨重工業(株)となる] |
播磨耐火煉瓦(株) | 窯業 | 『三十年史』(1980.04) | 1934年(昭9)国策で発足した日本製鉄(株)の製鉄所増設に伴う耐火煉瓦需要に応じるため、黒崎窯業(株)は兵庫県播州地区と北海道室蘭に工場を建設。日本製鉄は炉材確保のため黒崎窯業と提携し両工場を独立させ、1938年(昭13)日本炉材製造(株)を設立。同社は1942年(昭17)日本製鉄の傘下に入り日鉄炉材製造(株)となり、1944年(昭19)日本製鉄に吸収合併。戦後の再建整備計画で日本製鉄の炉材工場は分離して1950年(昭25)播磨耐火煉瓦(株)が発足。以降工場を広畑、東海、室蘭、大分に設置し発展する。30年史は創業前史を含む沿革史と、10章からなる部門史で構成されている。[1998年(平10)ハリマセラミック(株)と改称、2000年(平12)黒崎窯業(株)と合併し黒崎播磨(株)となる] |
阪神電気鉄道(株) | 鉄道・バス | 『輸送奉仕の五十年』(1955.04) | 1893年(明26)神戸近郊の有力者30名が阪神間に電気鉄道の敷設を出願。既設鉄道と並行する郊外電車の申請は政府の中で異論があり、会社設立の免許交付は1899年(明32)、停留場34ヶ所で神戸・大阪間の営業を開始したのは1905年(明38)であった。路線を延長し沿線開発を進め、1924年(大13)には甲子園球場を開設。1933年(昭8)神戸に地下鉄を開業、その後大阪駅前にも大地下駅を建設する。戦後いち早く復旧し路線の充実を目指す。50年史は関係資料の多くが戦災で失われたため略史として編纂され、100頁を越える写真版と多くの関係者の回顧録も掲載している。[2006年阪急ホールディングスとの事業統合により、阪急阪神ホールディングスの事業会社となる] |
万有製薬(株) | 医薬品 | 『万有製薬八十五年史』(2002.07) | 1915年岩垂亨により万有合資会社として創業。第1次大戦によりドイツからの輸入が途絶えたサルバルサンを、国内で合成するのに成功。1944年にペニシリン開発・製造に着手、戦後の製造のリーダーとなる。副腎皮質ホルモンを製造する米国メルク社と提携し、1984年にはその傘下にはいる。巻末にメルク社の小史も掲載。 |
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