会社名"き" から始まる社史一覧 全47件中47件 1件〜47件目を表示
会社名 | 業種 | 社史タイトル(出版年) | 会社沿革と社史メモ |
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汽車製造(株) | その他輸送機器 | 『汽車会社蒸気機関車製造史』(1972.04) | 明治初期に開設された日本の鉄道は機関車ほかの資材一切を輸入に頼っていた。資材国産化を宿願とした鉄道局長官井上勝(いのうえ・まさる、1843-1910)は退官し、渋沢栄一らの援助を受け1896(明29)年大阪に汽車製造(資)を設立。1901(明34)年には同じく栄一の協力で東京に開業していた平岡熙(ひらおか・ひろし、1856-1934)の平岡工場を合併、以降数多くの蒸気機関車、電気機関車等を製造する。1972(昭47)年川崎重工業に合併。社史は1941(昭16)年製造の機関車第2000号を記念して社内で執筆した「蒸気機関車2000号記念誌」を元にしたもので、1941年までの内容。川崎重工との合併を機に出版された。会社の沿革に続き蒸気機関車、電気機関車、電車等の製造品別製造史を記述し、製造品の写真を豊富に取り入れている。巻末に1940年以降の略年表あり。初版2000部、再版1000部の限定出版。 |
岸和田紡績(株) | 繊維 | 『岸和田紡績株式会社五十年史』(1942.03) | 明治初期に大阪の実業家寺田甚与茂(てらだ・じんよも、1853-1931)は岸和田の泉州木綿問屋らと紡績会社設立を図り、同業者からの出資を受け1892年(明25)岸和田紡績を創立。日清戦争景気で業績を上げ、株主配当は常に高水準を保つ。1941年(昭16)経済統制による企業統合で大日本紡績と合併し解散。創業から合併までの50年史は前篇・明治時代、後篇・大正昭和時代、余録、余記からなり、商標と製品は余録に、年譜・役員等は余記に掲載。[1964年(昭39)ニチボー(株)に社名変更(現・ユニチカ(株))] |
北日本汽船(株) | 海運 | 『北日本汽船株式会社二十五年史』(1939.06) | 明治末期の樺太には陸海交通網が徐々に整備されつつあった。海産物の漁獲増大に伴い各社の航路開設が続き、合理化のため合同経営の機運が高まる。大阪商船社長中橋徳五郎(なかはし・とくごろう、1864-1934)ら発起人は1914年(大3)北日本汽船を設立し、各社の航路を継承。その後も航路を次々開設し発展する。25年史は沿革、船舶、資本、事務組織、営業所、業績及財産の構成で、付録に年表と職員録を付す。「オットセイを繞る国際問題」等の樺太に関する挿話や購入船等の写真を随所に入れる。[1943年(昭18)大阪商船(現・商船三井)に合併] |
キッコーマン(株) | 食品 | 『キッコーマン株式会社八十年史』(2000.10) | 1917年(大正6)千葉県野田で醤油醸造にたずさわる茂木・高梨一族と、流山の堀切家の8家の醸造家が合同して、野田醤油(株)設立。初代社長は茂木七郎右衛門(もぎ・しちろうえもん、1860-1929)。本書では創業前の「しょうゆ小史」で紀元前からの調味料の歴史を概観。戦後しょうゆ単品の経営から脱却し、多角化・国際化経営を軌道に乗せる。1964年(昭和39)キッコーマン醤油(株)、1980年(昭和55)キッコーマン(株)と社名変更。年表は簡略だが目次が詳細。 |
キッコーマン(株) | 食品 | 『キッコーマン株式会社百年史』(2020.01) | 現在の千葉県野田市でしょうゆ醸造業を営んでいた茂木家・高梨家および同県流山市の堀切家の一族8家が合同し、1917(大正6)年、野田醤油株式会社を設立。1925(大正14)年、合併のために設立した野田醤油醸造株式会社を存続会社とし、創業者一族で別々に経営していた野田醤油株式会社、万上味淋株式会社、日本醤油株式会社を統合。合同後の会社を新しい野田醤油株式会社とする。1964(昭和39)年、商号とブランド名を一致させる必要性などからキッコーマン醤油株式会社に社名変更。さらに1980(昭和55)年、事業の規模と内容の変化に合わせて社名をキッコーマン株式会社に変更。しょうゆ、みりん、ケチャップ、ワイン、豆乳などの生産のほか、食育など食に関する体験、食文化普及活動にも力を入れている。千葉県野田市には「キッコーマン国際食文化研究センター」がある。本社史は4部12章にまとめた本編としょうゆをテーマにした附編および資料編から構成される。野田醤油株式会社設立から2017(平成29)年までの100年間は本編に、野田醤油株式会社設立前史は附編後半にまとめられている。映像資料『海を渡ったしょうゆ:キッコーマン100年 野田から世界へ』(Blu-ray、DVD各1枚)を付属。 |
キッコーマン醤油(株) | 食品 | 『キッコーマン醤油史』(1968.10) | 室町時代から醤油製造が始まった野田では、原料と水運の利に恵まれ江戸期に醤油生産が栄える。明治期に販路を全国へ広げ機械化も進み、1917年(大正6)一族の合同により野田醤油(株)創立。1964年(昭和39)従来の商標を社名にキッコーマン醤油(株)と改称。創立50年記念に編纂された社史は、既刊の20年史、30年史に多くの資料と図版を加え、更に日本の「食の歴史と醤油」の考察を附録としている。 |
(株)九州銀行 | 銀行 | 『九銀五十年史』(1990.12) | |
九州水力電気(株) | 電力 | 『九州水力電気株式会社二十年沿革史』(1933.08) | 日露戦争後の産業勃興期に水力発電の必要性が高まり、大分県では東京・福岡・中津の実業家3派が電力会社設立を企図。筑後川水力を利用した発電と電気化学工業品の製造販売を目的に、3派は共同して1911年(明44)九州水力電気を設立。1913(大2)女子畑(おなごはた)発電所が完成、翌年には八幡製鉄所への電力供給を行う。博多電気軌道ほか多くの電気会社を吸収合併し、1921年(大10)には日本窒素肥料(株)カーバイド製造日出工場、翌年には日本電化工業等を買収して電気化学工業へ進出する。20年史は創業顛末、年表、定款、事業概要、工作物、植林、供給区域明細、計画工作物、関係会社の構成で、巻頭に役員と事業所写真、巻末に役員伝と詳細な図表を付す。[1942年(昭17)電力国家管理により事業を九州配電へ引継ぐ] |
九州電力(株) | 電力 | 『九州電力10年史』(1961.11) | |
九州電力(株) | 電力 | 『九州電力四十年史 : 1951-1991』(1991.12) | |
九州電力(株) | 電力 | 『九州電力50年史 : 最近10年のあゆみ』(2001.12) | |
九州電力(株) | 電力 | 『九州地方電気事業史 : 1887明治20年-2005平成17年』(2007.10) | |
九州配電(株) | 電力 | 『九州配電株式会社十年史』(1952.12) | |
九州旅客鉄道(株) | 鉄道・バス | 『鉄輪の轟き : 九州の鉄道100年記念誌』(1989.10) | |
共同印刷(株) | その他製造業 | 『創造の系譜 : 共同印刷の80年』(1977.06) | 長岡出身の大橋佐平(おおはし・さへい、1834-1901)は1887年(明20)出版社博文館を設立、その自家用印刷工場として1897年(明30)博文館印刷工場を創設した。後に博文館以外のものも印刷、さらに美術印刷のため設立した精美堂を合併し1925年(大14)共同印刷を設立、初代社長は娘婿の大橋光吉(おおはし・こうきち、1875-1946)。海外から最新の印刷機を積極的に導入し発展、紙以外に布や金属の印刷も開始し「東洋一の印刷のデパート」と称される。80年史は日本工業新聞に連載した「共同印刷・社史挿話」をまとめて出版したもの。 |
共同印刷(株) | その他製造業 | 『共同印刷90年史』(1987.06) | |
共同印刷(株) | その他製造業 | 『共同印刷百年史』(1997.06) | |
共同印刷(株) | その他製造業 | 『共同印刷百二十年史』(2017.10) | 出版社、博文館の専用工場として、1897(明治30)年、博文館印刷工場が創設される。翌年、工場移転を機に合資会社博進社工場と改称。1905(明治38)年、合資会社博文館印刷所と改称し、博文館以外の発注も受けるようになる。1918(大正7)年に株式会社に改組。1925(大正14)年に株式会社精美堂と合併し、共同印刷株式会社となる。本社史は博文館印刷工場創設から数えて120周年を記念し制作された。第1部では既刊『共同印刷百年史』の内容を再編集し、第2部で近20年について詳述する構成となっている。巻末には資料編のほか、コラム、社長と若手社員の座談会を掲載。 |
共同漁業(株) | 水産 | 『共同漁業株式会社の事業』(1929.08) | |
共同石油(株) | 石油 | 『共同石油20年史』(1988.03) | 第2次大戦後石油輸入は禁じられていたが、石油の安定供給を図る石油業法が1962年(昭37)公布される。原油輸入自由化が検討され、外資の出資を受けていない民族系石油企業の育成等の石油政策が展開。それに伴い石油共同販売会社設立が図られ、日本鉱業、亜細亜石油、東亜石油3社による共販会社として1965年(昭40)共同石油が設立された。3社の規格・配油・特約販売店・LPG販売・銘柄等の集約・統一がなされ、1966年(昭41)には富士石油、1967年(昭42)には鹿島石油が加わる。2回の石油危機を経て1979年(昭54)東亜石油が、1981年(昭56)にはアジア石油が共石グループを離脱。合理化・効率化を進めて体制を整える。20年史では創立前史として戦後の石油産業と石油政策及び合併3社の沿革を記述。設立後の沿革を6章にわたり詳述、資料編には設立時の協定書や通産省通達文書も掲載。[1992年(平4)日本鉱業と合併し日鉱共石となる(現・JX日鉱日石エネルギー(株)] |
(社)共同通信社 | サービス業 | 『共同通信社三十五年』(1981.10) | |
(社)共同通信社 | サービス業 | 『回想共同通信社50年』(1996.06) | |
(社)共同通信社 | サービス業 | 『共同通信社50年史』(1996.06) | |
(社)共同通信社 | サービス業 | 『共同通信社年表』(1996.06) | 『共同通信社50年史』(社史ID:14430)の年表 |
(社)共同通信社 | サービス業 | 『共同通信社60年史 : 1995-2005』(2007.04) | |
京都織物(株) | 繊維 | 『京都織物株式会社五十年史』(1937.11) | 京都の染織業は維新後の京都府の勧業政策により、織殿・染殿として全国にさきがけ洋式染織法を取り入れていた。東西の有力者間に大規模な洋式設備を持った織物会社創立の機運が高まり、渋沢栄一らが京都織物会社の創立願書を提出、1887年(明20)認許、織殿の払下げを受け開業する。1893年(明26)商法施行に伴い定款改正、栄一を取締役会長とし京都織物(株)となる。50年史は沿革・事業・現況・年譜からなり、内外博覧会受賞メダルなど多くの写真入り。見返しの山水屏風は1909年(明42)栄一が相談役辞任の際に会社から贈呈されたもの。[1968年(昭43)業績悪化により解散] |
京都織物(株) | 繊維 | 『京都織物株式会社全史』(1969.04) | 京都府の勧業事業であった織殿(おりどの)の民間への払い下げを受け、京都織物会社として1887(明治20)年に創立。1893(明治26)年の商法の施行後、京都織物株式会社となる。1944(昭和19)年、京織工業株式会社に改称。1945(昭和20)年、再び京都織物株式会社に社名を戻した。1968(昭和43)年、経営難により解散。本社史は会社の解散を決議後、同社の歴史を後世に残しておくことを目的として制作された。明治篇、大正篇、昭和篇の3部構成で創業から解散までの変遷をまとめている。特に戦後の経営難から解散に至る経緯について詳しい。また元従業員や関係者の回顧を多く取り入れている。 |
京都銀行協会 | 銀行 | 『銀行 : 源流と進展 : 百周年記念誌』(1981.11) | 1881年(明14)京都にある国立銀行等8行が、銀行団体である京都同盟銀行を結成し、手形交換業務を開始。加盟銀行の増加と日清戦争後の経済界発展に対応するため、1898年(明31)京都同盟銀行は解散し新たに京都銀行集会所が創立。1930年(昭5)社団法人に改組。1945年(昭20)各地の銀行団体は終戦後の新組織に移転し、京都銀行集会所も改組して(社)京都銀行協会が設立。同盟銀行結成からの100年を記念して刊行された本書は3編からなり、第1編で平安時代から三井、小野、島田組の興隆に至る京都の金融業の歴史を記述。第2編で明治以降の100年の歩みをまとめ、第3編は資料。第1編は東京銀行協会の月刊誌『銀行倶楽部』に連載した「金融業の源流を訪ねて」に加筆修正したもの。京都で保管され戦火を免れた膨大な資料を基にしている。[2012年一般社団法人に移行][渋沢栄一は1910年(明43)に京都銀行集会所で演説をした] |
京都信用金庫 | その他金融業 | 『ここに生まれここに育って五十年 : 京都信用金庫のあゆみ. [本編]』(1973.09) | |
京都信用金庫 | その他金融業 | 『クロニクル [ここに生まれここに育って五十年 : 京都信用金庫のあゆみ]』(1973.09) | 『ここに生まれここに育って五十年 : 京都信用金庫のあゆみ. [本編]』(社史ID:11210)の資料編 |
京都信用金庫 | その他金融業 | 『コミュニティ・バンク論 : 地域社会との融合をもとめて』(1973.09) | |
京都信用金庫 | その他金融業 | 『コミュニティ・バンク論. 2』(1978.09) | |
(株)京都ホテル | サービス業 | 『京都ホテル100年ものがたり : 一歩一歩に感謝をこめて : 創業100周年』(1988.09) | 明治初期東京遷都により京都は地盤沈下したが、産業振興の掛け声のもとに博覧会や勧業場誘致等により、外国人の入洛が増加。神戸の料亭経営者前田又吉は、政財界の要請に応えて1888年常盤ホテル開業。勧業場跡地払下を受け、渋沢栄一らが起こした日本土木会社が工事を請け負い1890年本格的洋風ホテル完成。1894年京都ホテルと改名。終戦後は京都の国際観光都市化と共に業績も伸びる。百年史は編年体の記述部分の他に、グラビア・対談・メッセージ集・新聞広告等数多く取り入れた構成。 |
(株)協和銀行 | 銀行 | 『20年のあゆみ』(1968.07) | 1948年に日本貯蓄銀行が普通銀行に転換し(株)協和銀行が誕生してから20年の歩みを、手軽な物語風の小冊子として刊行したもの。 |
(株)協和銀行 | 銀行 | 『協和銀行史』(1969.03) | 1945年5月に東京・大阪・名古屋に本店を持つ9つの貯蓄銀行が合併し、東京に(株)日本貯蓄銀行設立。会長は安田保善社総長安田一、開業式で渋沢敬三日銀総裁が挨拶。しかし戦後のインフレーションの中で専業の貯蓄銀行は存立せず、1948年普通銀行に転換し、(株)協和銀行が誕生。社史の第1編は3年2ヶ月の貯蓄銀行時代を、合同から敗戦、そして戦後の再建の過程に分けて述べる。第2編では普通銀行へ転換後、体制を整備し業務を拡充した20年間の歩みを記述。 |
(株)協和銀行 | 銀行 | 『本邦貯蓄銀行史』(1969.09) | 民間の零細な貯蓄預金を資本化するため、1880年に東京貯蔵銀行が初の専業貯蓄銀行として誕生。第一国立銀行では三井家との勢力関係から1892年に子銀行として東京貯蓄銀行設立、会長渋沢栄一。1893年貯蓄銀行条例が施行され、以降600以上の貯蓄銀行が全国に誕生。経営の健全性を維持するため1922年貯蓄銀行法施行、1926年末には124行に激減。戦時財政下、貯蓄銀行は合併などにより次々消滅。戦後まで残った5行は再建整備の中で普通銀行に転換あるいは合併し、1949年に全て消滅する。 |
(株)協和銀行 | 銀行 | 『この10年のあゆみ : 1968-1978』(1978.05) | 創立30周年を期に、1968年から最近10年のあゆみを物語風の小冊子にまとめたもの。6つのテーマごとの話題を中心に記述。[協和埼玉銀行、あさひ銀行を経て、2003年りそな銀行及び埼玉りそな銀行となる] |
(株)協和銀行 | 銀行 | 『協和銀行史. 続』(1979.06) | |
(株)協和銀行 | 銀行 | 『協和銀行通史』(1996.06) | |
協和発酵工業(株) | 食品 | 『薔薇は薔薇 : 協和発酵35年史』(1984.08) | 協和化学研究所で発酵研究に携わった加藤弁三郎(かとう・べんざぶろう、1899-1983)は実業化のため1943年(昭18)東亜化学興業へ移るが、まもなく終戦となる。再建を託された加藤は社名を協和産業と改め、ペニシリン等の製造で発酵工業の柱を確立。その後再建整備法適用を受け第二会社として1949年(昭24)協和発酵工業を設立。ストレプトマイシンとアセトン・ブタノール発酵の技術導入成功により体力をつけ、数々の技術革新により植物ホルモンや石油化学部門へも進出する。協和発酵工業設立からの35年史は前半が写真中心の技術史、後半が組織と営業の変遷を年表と写真でまとめている。刊行直前に没した創業者のスナップ写真を巻末に掲載。[キリンホールディングス傘下のキリンファーマ(株)との合併により2008年(平20)協和発酵キリン(株)となる] |
極東警備保障(株) | サービス業 | 『長い夜明け』(1984.05) | |
麒麟麦酒(株) | 食品 | 『麒麟麦酒株式会社五十年史』(1957.04) | 1870年(明3)横浜天沼のスプリング・ヴァレー・ブルワリーで、W.コープランド(William Copeland, 1834-1902)が日本初のビールを醸造。その後会社は在日欧米人らに買取られてジャパン・ブルワリーが設立される(渋沢栄一も出資)。三菱関係者の支援を受けていた明治屋が1888年(明21)にジャパン・ブルワリー製ビールの販売権を得、「キリンビール」の銘柄で発売。1907年(明40)に明治屋、三菱合資、日本郵船がジャパン・ブルワリーを買取り麒麟麦酒(株)を設立。50年史はビールに因む錦絵や写真を豊富に採りいれ、沿革と現況を記述している。 |
麒麟麦酒(株) | 食品 | 『麒麟麦酒の歴史. 戦後編』(1969.01) | |
麒麟麦酒(株) | 食品 | 『麒麟麦酒の歴史. 続戦後編』(1985.03) | |
麒麟麦酒(株) | 食品 | 『キリンビールの歴史. 新戦後編』(1999.04) | 「キリンビール」の銘柄は三菱社管事の荘田平五郎が「西洋のビールは狼や猫などの動物が用いられているので、東洋の霊獣麒麟を商標にしよう」と主張してつけたといわれている。1907(明40)年に明治屋、三菱合資、日本郵船の協力により麒麟麦酒(株)を設立。社史はこれまで「五十年史」「戦後編」「続戦後編」がでており、この「新戦後編」は1983年以降15年間の歩みに2/3以上のページが割かれている。 |
近畿日本鉄道(株) | 鉄道・バス | 『50年のあゆみ』(1960.09) | 日露戦争後大都市を中心に鉄道事業が盛んになり、大阪・奈良間にも電気鉄道敷設の計画が進められた。1906年(明治39)には大阪の有力者ら3派の競願となり、合同協議の結果翌年特許状の交付を受け、1910年(明43)に大阪電気軌道の社名で創立。難工事の生駒トンネルを完成させ1914年(大3)大阪・奈良間が開通。経営危機を乗り越え路線を充実させ、1941年(昭16)参宮急行電鉄を合併し関西急行鉄道となる。1944年(昭19)合併により近畿日本鉄道が発足。戦後は経済復興に伴い自動車や百貨店などの事業を拡張する。50年史は略史、現勢と諸変遷表、年譜の3編からなり、多くの写真・図版を本文に挿入している。大和鉄道他関係会社の略史も掲載。 |
(株)キングジム | その他製造業 | 『鷲 : キングジム60年史 : 創業60周年記念誌』(1987.05) |
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