収録社史一覧

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会社名 業種 社史タイトル(出版年) 会社沿革と社史メモ
ヤンマーディーゼル(株) 機械 『ヤンマー50年小史』(1963.04)
ヤンマーディーゼル(株) 機械 『燃料報国 : ヤンマー70年のあゆみ』(1983.06)
湯浅金物(株) 小売業 『三百年ののれん』([1969.06])
(株)有終会 不動産 『有終会のあゆみ : 創立40周年を記念して』(1989.10) 有終会は1893年(明26)頃、第一銀行行員の自社株取得の便宜を図り、福利厚生策の一部を分担するため、渋沢栄一の「合本主義」の思想に基づき栄一を会長に任意団体として設立された。社名は四書五経によるもので、命名者は栄一と推察される。1912年(明45)第一銀行が二十銀行を合併したため二十銀行所有の根室牧場の移管を受け、1912年(明45)合資会社有終会として酪農および畜産に寄与する。戦後1948年(昭23)年解散するが、翌年には不動産および保険業を定款に掲げ合資会社として再スタート、1952年(昭27)株式会社となる。40年史は前史に任意団体発足時から解散まで、本史に再スタートからの歩みを記載。[1993年(平5)ユウシュウコープ、2009年(平21)ユウシュウ建物に社名変更]
(株)有隣堂 小売業 『有隣堂八十年史』(1989.10) 横浜生まれの松信大助(まつのぶ・だいすけ、1884-1953)は、1894年(明27)に父と長兄が横浜に開業した書籍販売の第一有隣堂から独立、1909年(明42)第四有隣堂を開業した。姉は第二有隣堂、次兄は第三有隣堂を開業していたが、大助は義兄と共に1917年(大6)有隣堂文具部を設立。1919年(大9)第四有隣堂は第一有隣堂と有隣堂文具部を合併し、(株)有隣堂と改組。しかし関東大震災の打撃が重く1927年(昭2)株式会社を解散、個人経営として経営再建に努め、1931年(昭6)(名)有隣堂を設立。1956年(昭31)株式会社に改組し、書店を中心とした地域の文化センターを目指して発展する。80年史では横浜地域史、出版業界の状況も含めて記述。社名の有隣は論語から採っている。
雪印乳業(株) 食品 『雪印乳業沿革史』(1985.04)
ユサコ(株) 商社 『ユサコ55年の歩み』(2004.08)
ユニチカ(株) 繊維 『ユニチカ百年史. 上』(1991.06)
ユニチカ(株) 繊維 『ユニチカ百年史. 下』(1991.06) 『ユニチカ百年史 上』(社史ID:02520)の下巻
(株)横河橋梁製作所 建設 『横河橋梁五十年史』(1960.05) 帝国大学造家学科出身の横河民輔(よこがわ・たみすけ、1864-1945)は三井元方でわが国初の鉄骨構造の三井総本店の設計・施行を担当、渡米してアメリカの工法を学ぶ。1903年(明36)横河工務所を設立。鉄骨構造物を主体とする建築物の鉄材の自給および鉄材による橋梁の建設を目指し、1907年(明40)製作組立て部門を分離独立させ、横河橋梁製作所を創業。1918年(大7)株式会社へ改組、各地の鉄道橋梁や無線電信塔など鉄骨建造物を数多く建設する。50年史は1章から7章は時代順に会社の発展過程を記述、8章から11章は部門別の資料と現況。随所に製品写真を多数盛り込んでいる。[1991年(平3)横河ブリッジと社名変更]
(株)横河橋梁製作所 建設 『横河橋梁八十年史』(1987.11) 1907年(明40)創業からの80年史。創業者横河民輔の伝記を序章とし、戦前編4章、戦後編5章、資料編からなり、人名・製品・事項索引付。1960年(昭35)刊行の50年史の不足を補い、経営上の失敗や過誤も記述している。執筆は社内だが、社史作りの専門家との共同作業の過程を編集後記に詳述。[1991年(平3)横河ブリッジに社名変更]
(株)横河建築設計事務所 建設 『横河建築設計事務所 : 80年の流れ』(1983.10) 1890年(明23)帝国大学造家学科を卒業した横河民輔(よこがわ・たみすけ、1864-1945)は、三井元方の建築掛技師として三井総本店の設計監督にあたる。その完成を機に三井を退社し、1903年(明36)日本橋に建設の設計・監理を行なう横河工務所を開設。三越呉服店などを建築し、帝国劇場の設計を劇場創立委員会(委員長渋沢栄一)より依頼され、1911年(明44)に竣成。その他日本工業倶楽部・東京株式取引場など数多くの建築にあたる。1953年(昭28)株式会社となり、1969年(昭44)横河建築設計事務所と改称。80年史は創立からの歩みを概観した後、建築作品写真を各時代ごとに掲載している。
(株)横河電機製作所 電気機器 『計測器ひとすじに : 横河電機の50年』(1965.09) 1903年(明36)横河工務所を起こした建築家横河民輔(よこがわ・たみすけ、1864-1945)は、建築と関係の深い電気設備に着目。欧州で技術を学んだ甥の横河一郎(よこがわ・いちろう、1885?-1938)と技術者青木晋(あおき・しん、1888?-1938)を中心に1915年(大4)電気計器研究所を設立。翌年横河電機製作所と改称し、第一次大戦の影響で欧州産電力計の輸入が途絶すると、電気計器国産化の旗手として急成長。さらに工業計器、オートメーションの自動制御装置などの開発により工業化の波に乗る。50年史は序章で創立者横河民輔の人物に触れ、第1-10章では時代を追って沿革をまとめている。[1983年(昭58)北辰電機製作所と合併し横河北辰電機となり、1986年(昭61)横河電機に社名変更]
(株)横河ブリッジ 建設 『横河ブリッジ百年史』(2008.04)
横浜生糸取引所 その他金融業 『横浜と絹の百年』(1994.04) 明治以降横浜から積み出される生糸は輸出商品の花形であった。横浜の蚕糸貿易商は生糸価格の安定と需給の円滑化を目的に取引所設立を計画。1894年(明27)蚕糸、製茶、綿布、織物、海産物を対象とした横浜蚕糸外四品取引所が設立。1910年(明43)横浜株式米穀取引所と合併し横浜取引所と改称。戦時下蚕糸業の縮小により経営悪化し1943年(昭18)解散。戦後GHQは蚕糸業復興を支援し生糸取引が再開、1951年(昭26)横浜生糸取引所が創立される。明治期の取引所開設からの100年史は開国から昭和前期の生糸貿易最盛期に重点をおき、蚕糸取引業の歩みを簡潔にまとめたもの。[1998年(平10)前橋乾繭取引所と合併し横浜商品取引所となる(現(株)東京穀物商品取引所。2009年(平21)生糸取引は休止)]
(株)横浜銀行 銀行 『横浜銀行四十年史』(1961.04) 1878年横浜に設立された第七十四国立銀行(後に七十四銀行)は、大正期に経営不振から休業。原富太郎ら横浜の財界人が奔走し、七十四および横浜貯蓄銀行を整理して1920年新たに(株)横浜興信銀行を設立。神奈川県下の銀行と次々合同し、1957年(株)横浜銀行と改名。40年史は1950年に出版された「横浜興信銀行三十年史」以降の10年間の歩みを詳述し、後半に30年略史を載せている。
(株)横浜銀行 銀行 『横浜銀行六十年史』(1980.12) 1920年の(株)横浜興信銀行設立からの60年の歩みを通史で述べる。第1部は神奈川県の中枢金融機関として横浜開港から記述を始め、1957年の(株)横浜銀行への行名変更まで。第2部では以降の20年間の躍進について詳述。
(株)横浜銀行 銀行 『横浜銀行の歩み : 地域とともに141年 : 創立90周年記念誌』(2011.05)
(株)横浜銀行 銀行 『写真でみる横浜銀行の歩み : 地域とともに141年』(2011.05)
横浜護謨製造(株) ゴム 『四十年史』(1959.01)
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