収録社史一覧

業種"繊維" 社史一覧 全107件中20件 81件〜100件目を表示

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会社名 業種 社史タイトル(出版年) 会社沿革と社史メモ
日綿実業(株) 繊維 『日綿70年史』(1962.11) 政府と紡績業界は1889年(明22)インドに調査団派遣、インド綿花の高品質を確認し輸入が拡大する。外務書記官として調査に参加した佐野常樹は、外国商に頼っていた綿花輸入の国内機関として、関西の綿花商らと共に1892年(明25)大阪に日本綿花を設立。中国・米国からも綿花輸入を開始、海外支店を設け取扱い品目が増加、1943年(昭18)日綿実業と改称。同年刊行の50年史を全面的に書き改め、最近20年の歩みと現況を追加して70年史としている。索引付。[1982年(昭57)ニチメンと改称、2004年(平16)日商岩井と合併し双日となる]
日清紡績(株) 繊維 『日清紡績六十年史』(1969.12) 日露戦争後の好景気の中、東京日本橋の綿糸布商日比谷平左衛門・岩崎清七・福沢桃介・安部幸兵衛らは紡績会社設立を計画、1907年日清紡績(株)の創立総会が開かれる。後発の紡績企業であったが優れた経営により急速に発展。繊維以外の業種にも多角化をはかり業績を伸ばす。60年史には合併した多くの会社の略史も含む。土屋喬雄監修。[日清紡績(株)沿革 http://www.nisshinbo.co.jp/profile/history.html]
日東紡績(株) 繊維 『回顧参拾年』(1953.04) 1878年片倉兼太郎ら天竜川畔に製糸場創設、1895年片倉組が組織される。一方渋沢栄一らが1898年創立した郡山絹糸紡績(株)は経営難のため1915年紡績部を片倉組へ買却。また1918年設立の福島製練製糸(株)は後に福島紡織(株)となり、不況期の1921年片倉の傘下に入る。片倉組から設立された片倉製糸紡績(株)は、製糸と紡績では経営方法等が異なるため紡績業を独立させ、1923年日東紡績(株)を設立。30年史は1953年までのあゆみを写真を多用して簡潔にまとめている。表紙には製品の化繊織物を使用。
日本毛糸紡績(株) 繊維 『十五年史』(1936.09) 1873年(明6)岐阜生まれの河崎助太郎(かわさき・すけたろう、1873-1943)は、大阪で1895年(明28)河崎商店を創立、洋反物・毛織物の問屋を営み、欧米の毛織物事情を視察する。産業報国の熱意に燃え財界活動から衆議院議員も務め、引退後は岐阜市商工会議所会頭に就任。地元の産業発展と本邦羊毛工業の世界的躍進を目指し、毛斯綸紡織(もすりんぼうしょく)の技術者を工場長に招いて1921年(大10)日本毛糸紡績を設立。15年史は創業後の発展を追った沿革のほか、福利施設や行事にも頁を割いている。[1942年(昭17)戦時下の企業統合で東洋紡績に合併。河崎助太郎次男の邦夫は後に東洋紡績社長・会長を務める]
日本毛織(株) 繊維 『日本毛織三十年史』(1931.01) 日清戦争後の好況期に神戸出身の川西清兵衛(かわにし・せいべえ、1865-1947)は毛織事業の将来性を見越し、神戸の実業家を募って1896年(明29)に日本毛織を起こす。加古川に工場を建設、東京製絨から技師長を招いて職工を養成し、毛布の製造を開始する。東京に販路を拡大、原毛を中国から輸入し羅紗の生産も開始。輸入品に対抗するため技術員を欧州に派遣し製絨術を学ばせ、第一次大戦後の不況期も事業を拡大する。30年史は沿革と現況・資料編の他、外史として毛織物工業界の歴史も詳述している。[2008年(平20)から通称社名を「ニッケ」とした]
日本毛織(株) 繊維 『日本毛織六十年史 : 1896-1956』(1957.05)
日本フエルト(株) 繊維 『日本フエルト80年史』(1998.12) ヨーロッパで発達した製紙技術は、漉きあげた湿紙をフエルト状の織物の上で圧搾するものだった。明治初期に渋沢栄一が製紙機械を輸入して以来、製紙用フエルトも輸入に依存していたが、第1次大戦期に国産化が図られる。王子製紙の藤原銀次郎(ふじわら・ぎんじろう、1869-1960)、樺太工業の大川平三郎(おおかわ・へいざぶろう、1860-1936)らは東京毛織のフエルト事業を独立させ、1917年(大6)日本フエルト設立、初代社長は田中栄八郎(たなか・えいはちろう、1863-1941)。東京・王子に工場を建設し1919年(大8)生産開始。70年史はこれまでに刊行した社史を踏まえた黎明編・興隆編と、最近10年に焦点をあてた飛翔編という構成。
日本紡績協会 繊維 『紡協百年史 : 紡績協会創立100年記念』(1982.10) 明治期各地に設立された紡績会社は技術と経営の知識経験を相互に交換するため、1882年(明治15)大阪に紡績聯合会を結成。1888年(明治21)大日本綿糸紡績同業聯合会、1902年(明治35)大日本紡績聯合会と改称。綿糸紡績に関わる内外事情を紹介する月報を刊行し、綿花綿糸輸出入税減免に関する運動や操短に取り組むなど、紡績業の興隆に伴い業界の発展に寄与する。戦時体制を経て1946年(昭和21)発足の日本紡績同業会が事業を継承し、1948年(昭和23)日本紡績協会となる。[渋沢栄一は本会に相談役として、また東京商業会議所会頭として輸出入税免除請願などに関わった]
日本綿花(株) 繊維 『日本綿花株式会社五十年史』(1943.09) 明治期に勃興した紡績業の原料棉花の輸入は、外国商館に依存していた。政府と紡績業者は渋沢栄一の協力を得てインド棉花の調査団を派遣し、インド棉輸入を図る。外務書記官として調査に参加した佐野常樹(さの・つねき、1853-1899)は関西の紡績業者らと共に、棉花輸入の自給機関として1892年(明25)日本綿花(株)を大阪に設立。紡績業の発展に伴い世界各国に取引範囲を広げ、食品や雑貨も取扱い発展する。1943年(昭18)日綿実業(株)と改称。日本綿花時代を扱った50年史は第1編沿革に続き、第2編に海外各地の事業を地域別に記述、第3~8編に取扱品目や関係会社等の資料をまとめている。[1982年(昭57)ニチメン(株)と改称、2004年(平16)日商岩井と合併し双日(株)となる]
(社)日本綿花協会 繊維 『綿花百年. 上巻』(1969.06) 日本に綿花(棉花)が渡来したのは平安時代だが、庶民の衣料として大きく普及したのは江戸時代で、全国で綿花が栽培され、手工業で綿布が生産されていた。明治に入り綿花・綿糸・綿布(綿三品)の輸入が急増し、政府の綿業育成等により大規模な綿紡績会社が設立。輸出も盛んになり多くの綿貿易会社が設立され、1898年(明治31)に国内外の綿花商20社により日本棉花同業会が発足。以降第二次大戦期に統制会社となるまで、同業者の利益を守り取引週報や月報を発行し、業界発展に貢献した。戦後は綿花輸入業者を中心とする民間団体として1947年(昭和22)(社)日本綿花倶楽部が発足、輸入綿花輸送に関わる業務と日報・月報刊行を刊行する調査業務を行う。1949年(昭和24)(社)日本綿花協会と改称。本書は日本綿花協会が創立20周年を機に、明治以降の綿業・綿貿易の歴史を上下2巻にまとめたもので、足跡を記した第1部綿花百年史、業界人20人に取材した第2部綿花人二十話、資料編である第3部参考諸表からなる。第1部には「前史」として明治以前の世界と日本の綿作と綿業の歩みが含められている。第2部には各文の末尾に筆者略歴を付す。第3部の会員会社要覧には、正・準会員計55社について社歴、綿花部門歴、歴代の綿花担当部長名、綿花部門の特色がまとめられている。[(社)日本綿花協会は2013年(平成25)一般社団法人となる]
(社)日本綿花協会 繊維 『綿花百年. 下巻』(1969.06) 『綿花百年. 上巻』(社史ID:02370)の下巻
(社)日本綿業倶楽部 繊維 『本邦綿糸紡績史. 第1巻』(1937.06) 中外商業新報社で紡績事情を研究し、日清紡績等で紡績業に従事した絹川太一が日本綿業倶楽部に入り、その研究成果を出版した著作。機械紡績以前の糸車の時代から書き起こし、始祖時代、奨励時代、勃興時代、濫興時代、という順で全国約80の紡績会社の沿革をまとめている。会社の掲載順は、始祖時代は創立順、他は調査順。各社ごとの章の他に時代ごとの綿業の状況を記述した章も含み、1937年(昭12)から1944年(昭19)までに7巻を刊行。各巻末に年譜と事項索引付。凡例は第2巻巻頭にあり。
(社)日本綿業倶楽部 繊維 『本邦綿糸紡績史. 第2巻』(1937.09) 『本邦綿糸紡績史. 第1巻』(社史ID:02390)の第2巻
(社)日本綿業倶楽部 繊維 『本邦綿糸紡績史. 第3巻』(1938.04) 『本邦綿糸紡績史. 第1巻』(社史ID:02390)の第3巻
(社)日本綿業倶楽部 繊維 『本邦綿糸紡績史. 第4巻』(1939.02) 『本邦綿糸紡績史. 第1巻』(社史ID:02390)の第4巻
(社)日本綿業倶楽部 繊維 『本邦綿糸紡績史. 第5巻』(1941.10) 『本邦綿糸紡績史. 第1巻』(社史ID:02390)の第5巻
(社)日本綿業倶楽部 繊維 『本邦綿糸紡績史. 第6巻』(1942.12) 『本邦綿糸紡績史. 第1巻』(社史ID:02390)の第6巻
(社)日本綿業倶楽部 繊維 『本邦綿糸紡績史. 第7巻』(1944.01) 『本邦綿糸紡績史. 第1巻』(社史ID:02390)の第7巻
(社)日本綿業倶楽部 繊維 『日本綿業倶楽部五十年誌』(1982.09) 綿業の中心大阪に関係者の倶楽部をという、東洋紡績(株)役員の岡常夫(1863-1927)の遺志を継ぎ、大阪の綿業者らは1928年(昭3)(社)日本綿業倶楽部を創立。渋沢栄一は名誉顧問に推される。1931年(昭6)には船場に綿業会館が竣工。会員の親睦活動の他、機関誌『綿業時報』や『内外綿業年鑑』『本邦綿糸紡績史』を次々発行。会館には大日本紡績聯合会が事務所を置き、多くの海外使節団が来館し綿業者と交流する。戦時下1943年(昭18)(社)綿業協会と改称。戦後1950年(昭25)に名称を(社)日本綿業倶楽部と復旧する。会館は占領期に接収されるが、返還後は内外の関係者に大いに利用され、2003年(平15)重要文化財の指定を受ける。50年史は草創期、非常時下、戦後復興という3つの章からなり、巻末に座談会や回顧録を置いている。[2012年(平24)一般社団法人へ移行]
福井精練加工(株) 繊維 『福井精練70年史 : 1889-1959』(1961.01) 明治期に福井の羽二重は需要が伸びたが、精練染色加工は京都で行われていた。京都の黒川栄次郎(1866-1948)らは1889年(明22)福井に京越組を創立し精練加工を開始。続いて多くの精練業者が乱立し競争する中、京越組を継承した黒川練工場は2度の合同を経て1923年(大12)福井精練加工(株)が創立。輸出用絹織物の生産を伸ばし人絹加工にも進出。戦時中は落下傘等軍需用品を生産。戦後は衣料の需要増と輸出再開で復興する。京越組創立からの70年史は沿革、現況、回想、資料という構成で、戦災を免れた多くの史料や図版を本文中に取り入れた編集。[1973年(昭48)セーレン(株)と改称][羽二重=上質の白い絹織物][精練=繊維中の夾雑物を除き、繊維の特性を発揮させて、漂白・染色をするための準備工程]
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