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会社名 業種 社史タイトル(出版年) 会社沿革と社史メモ
台湾総督府鉄道部 鉄道・バス 『台湾鉄道史. 下』(1911.02) 『台湾鉄道史. 上』(社史ID:11950)の下巻
高尾登山電鉄(株) 鉄道・バス 『高尾登山電鉄復活30年史』(1979.10) 東京神奈川の県境に接する高尾山は、大正期に中腹にある薬王院貫首が参拝信徒の便を図りまた地元の観光誘致のためケーブルカー敷設を発案。地元浅川村村長らが免許を申請し、1921年(大10)高尾索道(株)設立、1925年(大14)高尾登山鉄道と改称。工事の末1927年(昭2)営業開始するが、太平洋戦争末期の統制で機器供出し、1944年(昭19)営業休止となる。戦後1948年(昭23)に高尾観光(株)として再出発、翌年ケーブルカーを再開。1952年(昭27)高尾登山電鉄と改称、観光リフトも設置し来山者のニーズに合わせた堅実経営を続ける。再出発からの30年史は戦前篇に前身の高尾登山鉄道時代の概要を記載。戦後篇は沿革、ケーブルカー、リフト、その他の施設・催し物、傍系企業からなり、施設や切符など多くの写真を掲載している。
高崎商工会議所 経済団体 『高崎商工会議所八十年史』(1976.10)
高砂熱学工業(株) 建設 『高砂熱学工業70年の歩み』(1994.03) 実業家原六郎(はら・ろくろう、1842-1933)養子で大阪出身の原邦造(はら・くにぞう、1883-1958)は、1916年(大5)マッチ原料製造の高砂工業を設立。社名の高砂は謡曲に親しんだ邦造が命名した。暖房放熱機製造の高砂鉄工所を合併した後、暖房工事部を独立させ1923年(大12)高砂煖房工事が誕生。当時は日本の空調業界が輸入機器と外国人技師からの自立を始めた時期であった。冷凍機やヒートポンプを開発し経営基盤を確立。1943年(昭18)高砂熱学工業と改称、戦後は省エネルギ―システムなど新規事業にも進出する。70年史は本史と資料編からなり、本史第1編は既刊の50年史のダイジェスト。第2-3編で以降20年間の発展を詳述し、1979年(昭54)に起きた株式取得を巡るナミレイ事件にも触れている。
高島(株) 商社 『高島五十年史』(1966.12)
滝野川信用金庫 その他金融業 『たきしんが刻む春秋五十年』(1989.07) 1939年(昭14)の戦時体制下、東京市滝野川区の浅香銀治郎(あさか・ぎんじろう、1888-?)ら地元有力者は、物資の不足・資金難に喘ぐ中小企業等の要望を受け、相互扶助の精神に則り地元の金融機関として、西ヶ原町に滝野川区信用組合を設立。太平洋戦争が拡大するなか、戦時企業の合同や転廃業、空襲の災禍による営業の拠点の焼失もあり、継続か閉鎖かの岐路に立つこともあった。地元の協力と相俟って再建の軌道にのり、朝鮮動乱を境に経済復興の兆しも顕著となり、時代の要請を受け1951年(昭26)信用金庫法制定により滝野川信用金庫と改組。50年史は近隣の渋沢邸や渋沢史料館も含め、地域の風物や歴史を写真と共に折り込んでいる。
(株)竹中工務店 建設 『竹中の歩み : 竹中工務店』(1974.02)
田島ルーフィング(株) その他製造業 『わが国建材の100年と三星の50年』(1969.06) 蔵前高等工業学校出身の田島武長(たじま・たけなが、1890-1977)は、塗料の仕事を経て1919年(大8)応用化学研究所を創設。外国品に依存していたルーフィング(屋根の防水材)の国産化に成功し、製品ブランドを三星とした。1926年(大15)防水材料ギルソイドルーフィングの特許権を獲得、翌年合資会社に改組し防水工事材料の分野に本格的に進出。1938年(昭13)田島応用化工(株)に改組・改称、戦時中は軍管理工場となる。戦後タイル部門にも進出し1952年(昭27)三星アスファルトタイル(後に三星プラスタイル)を新設。社内体制を整備し1965年(昭40)田島応用化工を田島ルーフィングに、三星プラスタイルを田島応用化工に改称、建材界トップメーカーとして発展する。本史は日本の建材の100年、三星グループの50年、創業者田島武長、現況、資料からなり、明治以降の建材界の推移を概観することができる。
(社)筑豊石炭鉱業会 鉱業 『筑豊石炭鉱業会五十年史』(1935.11)
千島土地(株) 不動産 『千島土地株式会社五十年小史』(1962.04)
千島土地(株) 不動産 『千島土地株式会社設立100周年記念誌』(2012.08)
秩父セメント(株) 窯業 『秩父セメント五十年史』(1974.08) 1862年埼玉県生まれの諸井恒平は、縁戚の渋沢栄一の推挙で日本煉瓦製造や秩父鉄道の経営に参画。実業人としての知識と経験を積み、武甲山石灰石の開発によるセメント起業をもくろみ、財界有力者の賛同を得て1923年秩父セメント(株)創業。50年史は本編が沿革と創業3代社長の小伝、資料編は生産技術、業績分析の本文と資料・年表。業界史部分は簡潔で、会社の設立経緯とその後の発展を主軸にしている。[1998年日本セメントと合併し太平洋セメント(株)となる]
秩父鉄道(株) 鉄道・バス 『秩父鉄道五十年史』(1950.12) 埼玉県秩父地方は山岳地帯で交通は極めて不便であった。秩父・熊谷の有力者が上州館林と秩父間の鉄道敷設計画を立て、日本煉瓦の諸井恒平(もろい・つねへい、1862-1941)らの賛同を得て上武鉄道(株)を1899年(明32)設立登記。建設工事にかかり熊谷~秩父間を1914年(大3)までに開業する。この間経営難に際し渋沢栄一の指導を仰ぐ。1916年(大5)には秩父鉄道(株)と改称。更に鉄道延長し武甲山の石灰石を浅野セメントへ搬出、1922年(大11)からは秩父セメントにも輸送し、業績を伸ばす。50年史は創業と鉄道建設について簡潔に述べた後、観光や自動車などの関連事業、従業員待遇、福利厚生などに触れている。工事現場や沿線名勝の写真を多く掲載。
秩父鉄道(株) 鉄道・バス 『秩父鉄道の100年 : 鉄道とともに歩む人びとの1世紀のドラマ : 保存版』(1999.12)
(株)千葉銀行 銀行 『千葉銀行史』(1975.03) 明治以降千葉県に多くの国立・私立銀行が設立。その後合同が進み、1943年に千葉合同銀行、小見川農商銀行、第九十八銀行が合併して(株)千葉銀行が創立される。1944年一県一行主義の政策により千葉貯蓄銀行、野田商誘銀行を合併(県内58銀行の流れをくむ)。戦後は1958年に経営陣が交代、1960年の労働争議を経て業績を発展させる。社史は創立以前の千葉県銀行史にも頁を割き、90銀行ほどの簡略史も掲載。資料編には写真も多く取り入れている。
(株)中央公論社 サービス業 『中央公論社の八十年』(1965.10) 1886年(明19)京都西本願寺普通教校の有志学生らが反省会なる修養団体を結成、翌年機関誌として『反省会雑誌』を創刊。後に『反省雑誌』と改題、反省会本部を反省雑誌社と改め、1896年(明29)東京へ移転。1899年(明32)には堅苦しい誌名から『中央公論』と改題、社名も反省社と改称した。売行きは好調で1912年(大元)本願寺から独立、1914年(大3)中央公論社と改称、1926年(大15)には株式会社となり発展する。1944年(昭19)軍部の圧力で廃業するが翌年末には再建、戦後の出版ブームの中で全集や新書も刊行し社業を拡張する。80年史は作家の執筆による物語的な叙述で「風流夢譚」事件などにも触れ、巻末に詳細な年表を付している。同社の全集と同様の装丁。[1999年(平11)出版権などを読売新聞グループへ営業譲渡し、中央公論新社となる]
中央信託銀行(株) 銀行 『中央信託銀行30年史』(1993.01)
中央信託銀行(株) 銀行 『中央信託銀行史 : 1962~2000』(2000.03) 第二次大戦後政府は経済復興へ向け基幹産業への安定的資金供給を図るため、金融機関の業務分野を調整し長短金融分離を進めた。さらに1952年(昭27)長期信用銀行法制定の一環として銀行業務と信託業務の分離も進めた。東海銀行の信託分離の意向を受けた新信託銀行設立構想の中で、日本興業銀行の働きかけにより日興・山一・大和の3証券会社は公社債投信の受託銀行を企図し、また日本興業銀行と親密な日本証券代行及び第一信託銀行も参画、1962年(昭37)中央信託銀行が設立された。経済グローバル化の中で新しい金融システムに対応し、1998年(平10)には北海道拓殖銀行本州地区営業を譲受ける。2000年(平12)三井信託銀行と合併し、中央三井信託銀行となる。合併を機に編纂された社史は、既刊『中央信託銀行30年史』の内容を序章にまとめ、それ以降を本文に詳述。巻末に支店小史も記載。[2002年(平14)三井トラスト・ホールディングス(株)の完全子会社となる(現・中央三井トラスト・ホールディングス(株))]
(株)中国新聞社 サービス業 『中国新聞八十年史』(1972.05)
(株)中国新聞社 サービス業 『中国新聞百年史』(1992.12)
(株)中国新聞社 サービス業 『中国新聞百年史. 資料編・年表』(1992.12) 『中国新聞百年史』(社史ID:14690)の資料編
中国電力(株) 電力 『中国地方電気事業史』(1974.12) 中国地方では1888年(明21)から岡山紡績始め各紡績会社が自家発電によって電灯を使用開始。初の電気事業は1894年(明27)設立の岡山電灯で、その後渋沢栄一の関わった広島水力電気ほか数多くの事業者が現れた。これらが次第に統合され、さらに時代の要請に基づいて行なわれた電力国家管理、電力再編成の過程を経て、1951年(昭26)に日本発送電中国支社と中国配電の合併により中国電力が設立される。中国地方電気事業史は研究者の執筆で、第1編は中国地方における電気事業の全過程の歩みを産業史的に記し、第2編は中国電力設立後の推移について経営史的に記述、第3編は資料編。
中国電力(株) 電力 『中国電力50年史 : あなたとともに、地球とともに』(2001.11)
中国配電(株) 電力 『中国配電株式会社十年史』(1953.12) 中国地方5県の90近い電気事業者は政策により山口県、出雲電気、山陽配電、広島電気の4業者に統合されていた。1942年(昭17)配電統制令に基づき4者は合同し中国配電が設立される。終戦後電力需要は一時激減したが、復興が進み業績は向上。1951年(昭26)電気事業再編成令により、日本発送電中国支社と中国配電が合併し中国電力を設立。10年史は中国配電の設立から解散までの歩みを部署ごとにまとめ、写真・図表を多く採り入れている。広島の原爆被害および復旧状況も写真とともに掲載し、巻末には座談会記事・歴代役員の回顧録がある。
中電配電サポート(株) 建設 『中電配電サポート株式会社 : 会社案内 : 中部電力グループ』(2014.07)
中日実業(株) 商社 『中日実業株式会社三十年史』(1943.08) 日清戦争後中国富源開発の為の日中合作の機運が高まり、1913年(大2)中国側代表を孫文(そんぶん、1866-1925)、日本側代表を渋沢栄一として中国興業(株)が創立された。1914年(大3)孫文に代わり中華民国大総統に就任した袁世凱(えんせいがい、1859-1916)の申し入れで、組織を強化し中日実業(株)に改組・改称。日中双方の法人格を有する会社として、鉱山、油田、炭礦、電気、綿業等の事業を展開する。30年史は創立以前の諸情勢、会社の創立、渋沢の訪中、桃冲鉄山や東洋製鉄などの事業活動の概況、会社整理問題とその回復等を10章にまとめている。巻頭に関係者揮毫や肖像・書簡の写真を、巻末の附輯に定款、役員表、営業所所在地を掲載。[1945年以降の消息不明]
中部電力(株) 電力 『中部電力10年史』(1961.11) 第二次大戦後の電気事業再編成に際し元東邦電力社長松永安左ヱ門(まつなが・やすざえもん、1875-1971)は、日本発送電と各配電会社を解散し全国9地区に独立採算制の会社設立を提案。最終的にその案に沿った形が実施され、中部地区では日本発送電東海支店と中部配電を再編成し1951年(昭26)中部電力(株)が発足。発電から配電までを一貫経営する会社として中部地方の電源開発を推進し発展する。10年史は社内の執筆で総説編、総務編、営業編、技術編からなり、巻末に表索引付。文章のつくり方は同社編「文書のつくり方訓練シート集」によると凡例にあり。
中部電力(株) 電力 『中部電力20年史』(1971.11)
中部電力(株) 電力 『中部電力40年史』(1991.10)
中部電力(株) 電力 『中部地方電気事業史. 上巻』(1995.03) 中部地方初の電灯会社として1889年(明22)名古屋電灯が開業、1922年(大11)東邦電力がこれを引きつぎ、300以上の事業者を合併し業容拡大しながら20年間にわたり事業活動を展開。1942年(昭17)からは国家管理体制のもと、中部配電が戦中戦後の10年間を供給してきた。1951年(昭和26)電力再編成によって中部電力が発足。この電気事業史は、上巻が名古屋電灯の創業から中部配電の解散まで、下巻が中部電力発足から1992年(平4)3月までの期間を対象としている。研究者の執筆で、中部地方の詳細な電気事業沿革図(電気事業者索引付)と巻末索引付。
中部電力(株) 電力 『中部地方電気事業史. 下巻』(1995.03) 『中部地方電気事業史. 上巻』(社史ID:13730)の下巻
中部電力(株) 電力 『時の遺産 : 中部地方電気事業史料目録集』(2001.10) 1995年(平7)刊の『中部地方電気事業史』編纂時に収集した各種史料を紹介するため、中部電力創立50周年記念事業の一環として編纂した目録集。2分冊の構成で、前編[本編]は明治初期から2001年(平13)までの電気事業の足跡、福沢桃介(ふくざわ・ももすけ、1868-1938)・松永安左衛門(まつなが・やすざえもん、1875-1971)ほか中部地方電気事業の人物史、写真や図を用いた発電所設備などの紹介からなる。後編[付編]は石碑・書画・文献など13,000件に及ぶ電気事業の関連史料について、史料名・所有者・所在地などを種類ごとに一覧表にしている。
中部電力(株) 電力 『[時の遺産] : 中部地方電気事業史料目録集. 付・目録』(2001.10) 『時の遺産 : 中部地方電気事業史料目録集』(社史ID:13750)の付編
中部電力(株) 電力 『中部電力50年史』(2001.10) 第二次大戦後の電気事業再編成で1951年中部電力(株)が発足。中部地方の電源開発の多様化を進め、高度経済成長を支え石油危機を乗り越え発展する。地域活性化にも積極的に取り組む。50年史は社内の執筆で写真、本文、資料、年表からなり、本文は要約である「創立からの40年の概観」と、トピックごとの17章に詳述された「この10年のあゆみ」で構成されている。写真は技術関連のものに加え地域社会の伝統文化等も含む。既刊の10年史、20年史、30年史、40年史のうち10年史以外は同様の構成。用字用語は同社の「文章の作成基準」によると凡例にあり。
中部配電(株) 電力 『中部配電社史』(1954.12)
(株)朝鮮銀行 銀行 『朝鮮銀行史』(1987.12) 第一国立銀行は1878年(明11)釜山支店を開設以来、日韓貿易金融や海関税事務等を行っていた。同行は1896年(明29)第一銀行となり、1902年(明35)から韓国で第一銀行券を発行し実質的に韓国の中央銀行としての役割を果す。1909年(明42)韓国銀行条例(韓国法)に基づく韓国銀行が設立され、第一銀行から中央銀行業務を継承。韓国併合後1911年(明44)、韓国銀行は朝鮮銀行法(日本法)に基づく特殊銀行として朝鮮銀行と改称。その後中国やシベリアに進出し、朝鮮銀行券の流通による勢力圏の拡大がはかられた。第二次大戦後閉鎖機関に指定され解散し、朝鮮にあった資産をもとに韓国銀行と北朝鮮中央銀行が設立された。一方日本国内の残余資産をもとに1957年(昭32)日本不動産銀行が設立された。当該社史は韓国銀行創設前史から閉鎖後日本不動産銀行設立までの過程を、膨大な一次資料を元に時代順の6章にまとめたもの。詳細な資料編と人名索引付。[日本不動産銀行は1977年(昭52)日本債券信用銀行と改称(現・あおぞら銀行)]
朝鮮興業(株) 商社 『朝鮮興業株式会社二十五年誌』(1929.10) 日露戦争直後の1904年(明37)9月、朝鮮半島の農業改良事業を目的に渋沢栄一ら実業家の提唱により韓国興業が設立。1909年(明42)韓国倉庫を合併し倉庫業に進出、1910年(明43)には同様の拓殖事業を行っていた韓国拓殖を合併し事業を拡張する。同年の韓国併合により韓国興業は1913年(大2)朝鮮興業と改称。各地に農場を配置し安定した農業経営にあたる。25年史は沿革と農業・倉庫・畜産事業等を記述した13章からなり、特に農業を詳述。多数の事業写真と統計表を含む。[1945年(昭20)北緯38度線以南の耕作地は新韓公社が接収、それ以外の消息は不明]
朝鮮興業(株) 商社 『朝鮮興業株式会社三十周年記念誌』(1936.10)
朝鮮総督府鉄道局 鉄道・バス 『朝鮮鉄道史』(1915.10)
朝鮮総督府鉄道局 鉄道・バス 『朝鮮鉄道史. 第1巻』(1929.10)
朝鮮総督府鉄道局 鉄道・バス 『朝鮮鉄道史. 第1巻』(1937.06)
朝鮮棉業(株) 繊維 『朝鮮棉業株式会社沿革史』(1917.07) 明治後期に大日本紡績聯合会は朝鮮半島での紡績原料綿栽培を企図し、現地での綿試作を経て1905年(明治38)棉花栽培協会を設立、韓国政府の同意と予算を得て栽培の普及拡大をはかる。聯合会書記長庄司乙吉(しょうじ・おときち、1873-1944)らは綿花栽培の拡充をめざし、1906年(明治39)韓国棉花(株)を設立、棉花栽培協会の事業を補佐し、栽培人への貸金や綿花の買収などの任務を行う。1911年(明治44)韓国併合により社名を朝鮮棉業(株)と改称。1912年(明治43)綿売買が自由解放され、協会は解散し所管は各道庁に移され、朝鮮棉業は一般の営利会社として営業を継続する。多くの同業者が勃興する中に創立趣旨の達成をみて、1916年(大正5)世界各国の綿花を扱っていた日本綿花(株)に事業を譲渡して解散。8章からなる沿革史は第1~3章で朝鮮における綿花栽培の沿革、当社の創立と営業を概観し、第4章に創立から棉花栽培協会解散までの営業、第5章に以降会社解散までの営業、第6~7章に工場経営と営業成績、第8章に解散経緯を記載。小冊子ながら朝鮮半島での20世紀初期の綿花栽培の実態が克明に綴られている。[渋沢栄一は棉花栽培協会の評議員を務めた]
千代田化工建設(株) 機械 『千代田化工建設25年史』(1973.01)
千代田火災海上保険(株) 保険 『千代田火災八十年史』(1978.03)
千代田火災海上保険(株) 保険 『千代田火災百年史』(1998.03)
月星ゴム(株) ゴム 『月星ゴム90年史 : 明治6年創業』(1967.10) 久留米の商家槌屋に生れた倉田雲平(くらた・うんぺい、1851-1917)は、足袋の需要に着目し1873年(明6)つちやたび店を創業。堅実な経営で業績を伸ばし、ゴムを使用した地下タビ製造から運動靴製造で全国へ進出。海外進出に当たり月星印を1928年(昭3)から運動靴に使用する。1939年(昭14)日華護謨工業と社名変更、戦後は日華ゴムを経て1962年(昭37)月星ゴムと改称し、工業用品部品製造にも進出する。90年史は日華ゴムの『八十年小史』(1953年刊)を踏まえつつ、創業からの歩みを製品写真と共にわかりやすく記述している。[1972年(昭47)月星化成、2006年(平18)ムーンスターに商号変更]
帝国蚕糸(株) 繊維 『大正九、十年第二次蚕糸業救済の顛末』(1924.12)
帝国人造絹糸(株) 繊維 『当社の沿革と化学繊維工業の概観 : 創立三十周年記念』(1949.06) 東京帝大に学んだ久村清太(くむら・せいた、1880-1951)と秦逸三(はた・いつぞう、1880-1944)は鈴木商店子会社の東工業(株)で人造絹糸製造の研究を進め、1915年(大4)分工場の米沢人造絹糸製造所が発足。第一次大戦景気で生産が伸び、1918年(大7)東工業から分離して帝国人造絹糸(株)が創立。広島、岩国、三原にも工場を建設して設備を増強し、昭和期には需要の変化に対応しスフの生産を拡大する。戦災を蒙るが、占領期GHQの承認を得た政府の繊維産業再建計画により戦後復興を果たす。30年史は会社史、国内外の化学繊維工業史、各種資料、回顧録等からなり、会社史では会社と各工場、研究所、調査課それぞれの沿革の後に、鈴木商店の破綻や関係会社、労働組合等の状況に触れている。巻末統計表の多くは英文併記。[1962年(昭37)帝人(株)と改称][スフ(ステープル・ファイバー=staple fiber):人造絹糸(人絹)を短く裁断したもの。人絹製造の際大量に発生する屑糸であったが、羊毛や綿と混紡することで従来の織物に種々の変化を与え、かつ安価で提供できたので、広く需要が伸びた]
帝国製麻(株) 繊維 『帝国製麻株式会社写真帖 : 東宮殿下行啓紀念』(1911.07)
帝国製麻(株) 繊維 『日本の製麻業』(1936.08)
帝国製麻(株) 繊維 『帝国製麻株式会社三十年史』(1937.10) 内務省技師吉田健作(よしだ・けんさく、1852-1892)はフランスで亜麻紡績を学び、1881年(明14)帰国して製麻業創立を各地に企画。1884年(明17)近江麻糸紡績、1887年(明20)北海道製麻会社、下野麻紡織会社の創立に関わる。日清戦後の不況を乗り切るため近江、下野の両社と大阪麻糸が合同し1903年(明36)日本製麻設立。1907年(明40)には北海道製麻も合併し帝国製麻が誕生、朝鮮や満州にも工場を作り業容を拡大する。(渋沢栄一は北海道、下野、帝国各製麻会社に関わる。)30年史は創立以前の沿革も含み、軍需品や衣服・蚊帳など各種麻製品の写真を巻頭に掲載。巻末に古代中世西洋の亜麻業の解説を図入りで載せている。[1941年(昭16)太陽レーヨンを合併して帝国繊維と改称し、その後も変遷している]
帝国製麻(株) 繊維 『五十年史』(1959.10)
帝国生命保険(株) 保険 『帝国生命保険株式会社五十年史』(1939.10) 海軍会計学舎で英国の経済学等を学んだ加唐為重(かから・ためしげ、1855-1892)は、英国を発祥とする科学的生命保険理論に基づく生命保険会社設立に奔走、福原有信(ふくはら・ありのぶ、1848-1924)らを創立委員に1888年(明21)帝国生命保険(株)を創業した。1910年(明43)経営権安定のため大株主として古河家が加わる。1936年(昭11)渋沢栄一が関わった東洋生命保険を合併し、その全契約を包括移転。社内の体制を整え保険契約高14億円に達する。50年史は第1章に創立と沿革、第2章以下に組織及制度、保険種類及約款、保険契約者利益配当、資産運用など項目別の状況を記述、巻末及び付録に統計諸表を掲載している。[1947年(昭22)朝日生命保険(相)となる]
帝国臓器製薬(株) 医薬品 『帝国臓器製薬80年史』(2000.12)
(株)帝国データバンク サービス業 『Self-portrait : 帝国データバンク百年の肖像』(2000.06)
(株)帝国データバンク サービス業 『情報の世紀 : 帝国データバンク創業百年史』(2000.06) 福岡出身の後藤武夫(ごとう・たけお、1870-1933)は法律を学び新聞記者等を経て興信業設立を目指し、独力で1900年(明33)東京に帝国興信社を創業。1902年(明35)帝国興信所と改称し、1906年(明39)株式会社となる。『帝国経済雑誌』『帝国信用録』『帝国銀行会社要録』等を発刊し、実業道徳の興隆を意図して成長、海外へも進出する。戦後高度情報化社会を迎えコンピュータシステムを導入し、1981年(昭56)帝国データバンクと改称。100年史は序章で興信業の誕生を述べ、創業からの歩みを時代順の7章で実証的に詳述。多くの写真やコラムを交えた立体的な編集で、後藤が発刊し渋沢栄一も支援した雑誌『日本魂』にも触れる。引用資料は各頁欄外に明記し、支店小史を含む詳細な資料編付で、編集過程をあとがきに記す。索引付。普及版『Self-portrait : 帝国データバンク百年の肖像』とCD-ROM版『TDBの世紀』を同時に刊行。
(株)帝国ホテル サービス業 『ホテルと共に七十年』(1964.04) 石川県出身の犬丸徹三(いぬまる・てつぞう、1887-1981)は東京高等商業学校卒業後、満洲・上海・欧州・米国でホテル業務に従事。1890年(明23)開業の帝国ホテルに1918年(大7)招聘され帰国し、翌年副支配人に就任。ライト設計の新館建築中の1923年(大12)支配人となる。昭和期の発展を築き戦火を乗り越え終戦後1945年(昭20)末に社長に就任。戦後のホテル事業復活と共に観光業界発展にも尽力する。本書は70年余りの人生の大半をホテル業界に身を置き、帝国ホテルの業績向上に深く貢献した著者の自伝。「半生の記」と題し38回に渡り日本ホテル協会機関誌『ホテル・レビュー』に連載した記事を元に編集。真摯な語り口で帝国ホテルと日本のホテル業界の足跡を描き出している。
(株)帝国ホテル サービス業 『帝国ホテル物語 : ホテルが綴る近代史 : 開業九十周年記念』([1980.11あとがき]) 1890年(明23)に開業した帝国ホテルの90周年記念誌。創業時から首都東京に相応しい役割を追求してきた帝国ホテルは、時代の要請に対応するオフィス機能を備えたインペリアルタワー建築中に90周年を迎える。社史は少ないページ数ながら建物や関わった人々の写真を数多く取り入れた編集で、スタッフや顧客のエピソードもはさみ、帝国ホテルの沿革と特徴をわかりやすくまとめている。
(株)帝国ホテル サービス業 『帝国ホテル百年史 : 1890-1990』(1990.11) 幕末の開国以後、外国の賓客接待のための近代ホテルの必要性が高まる。財界実力者渋沢栄一、大倉喜八郎らを発起人に1887年(明20)有限責任東京ホテル会社設立。しかし近くに同名のホテルがあり1890年(明23)有限責任帝国ホテル会社と改称し、同年帝国ホテル開業。1893年(明26)株式会社に改組。1923年(大12)にはライト設計の全館が完成、同年の関東大震災の被害も軽微で、戦前戦後を通じて多くの来日外国人が宿泊。戦後は進駐軍に接収されるが、解除後は観光ビジネスの拡大と共に事業を拡充。1970年(昭45)に現本館が完成し、卓越したサービスの提供を目指して発展する。本格的社史として初めて編纂された100年史は沿革編と資料編からなる。沿革編は帝国ホテルの創業からの経営施策の足跡に加え、関連の深い観光行政や帝国ホテルが欧米から移入した生活文化等についても触れる。人名・事項索引付。同時に普及版と英語版の社史も刊行。
(株)帝国ホテル サービス業 『The Imperial : the first 100 years』(1990) 『帝国ホテル百年史』の英語版。序章"Hospitality : a medley of traditions"では、西欧の伝統を受け継ぎながら日本の迎賓館としての歴史を築いた帝国ホテルの「もてなしの心」に触れる。第1章"The grand design"では、1890年(明23)の開業前後からホテルの基礎を作り上げた時期を扱う。第2章"The vibrant image"は、ライト館時代の輝かしい発展と戦争前後の時期を述べる。第3章"Practical accommodations"では、新しい時代に即した本館を建築し更に向上を目指すホテルの姿を描く。巻頭に年表を置き本文中に多くの写真をとりいれた編集。
(株)帝国ホテル サービス業 『帝国ホテル百年の歩み』(1990.11) 『帝国ホテル百年史』の普及版。1890年(明23)の開業からの経営の歩みを第1部に置き、第2部以降は帝国ホテルが時代の先駆けとなり、生活文化の伝播あるいは創造に大きな影響を与えた足跡を、「文化」「建築」「料理」の角度からまとめている。読みやすい文体で写真や図版を豊富に取り入れ具体的に提示した編集。
(株)帝国ホテル サービス業 『Imperial Hotel : a legend in pictures』(2003.03) 1890年(明23)の開業から100年以上にわたる帝国ホテルの歩みを写真で綴った社史。日本の西欧化の足跡を示すホテル建物や各種設備、行事とそこに集った人々、レストランのメニューなど各時代の写真を解説付きで配している。本文は英語と日本語併記で、巻末の"The Imperial : a brief history in words"「3つの物語 : 帝国ホテルの軌跡」に沿革をまとめている。[巻頭にライトがデザインした帝国ホテル用食器の写真]
(株)帝国ホテル サービス業 『帝国ホテルの120年』(2010.12)
帝蚕倉庫(株) 倉庫・運輸関連 『帝蚕倉庫三十五年史』(1964.11) 大正期の生糸恐慌の救済機関として1920年(大9)設立された帝国蚕糸は、使命を達成し多額の利益をあげ解散。その残余財産活用の一つとして政府により生糸専用倉庫が横浜に建設される。倉庫運営のため蚕糸業者らは協同して1926年(大15)帝国蚕糸倉庫(株)を創立。政府と倉庫賃借契約を結び開業する。第二次大戦後1947年(昭22)帝蚕倉庫と改称、蚕糸業の衰退と共に会社の業態も変化し、横浜の立地を活かした港湾倉庫業としての道を歩む。35年史は6章までに創立からの沿革を記し、7章が役員と定款、8章が生糸入出庫量等の業務諸表。附録に生糸需給表等を付す。
帝人(株) 繊維 『帝人の歩み. 1』(1968.05) 貿易商鈴木商店の金子直吉(かねこ・なおきち、1866-1944)は人造絹糸(人絹)の将来性に目をつけ、1915年(大4)子会社の東工業(株)に分工場米沢人造絹糸製造所を設立。第一次大戦景気で生産が伸び、1918年(大7)東工業から分離して帝国人造絹糸(株)が創立(本社は大阪)。工場を次々と建設し、人絹およびスフの製造で躍進。戦後は種々の合成繊維製造に業容を拡大し、1957年(昭32)本社を東京へ移す。1962年(昭37)帝人(株)と改称。1968年(昭43)の50周年を機に編纂を開始した社史『帝人の歩み』は、時代順のトピックごとに沿革をまとめた編集で、1977年(昭52)までに11巻を刊行している(内容は創業時から1961年(昭36)頃まで)。
帝人(株) 繊維 『帝人の歩み. 2』(1968.10) 『帝人の歩み. 1』(社史ID:02000)の2巻
帝人(株) 繊維 『帝人の歩み. 3』(1969.06) 『帝人の歩み. 1』(社史ID:02000)の3巻
帝人(株) 繊維 『帝人の歩み. 4』(1969.11) 『帝人の歩み. 1』(社史ID:02000)の4巻
帝人(株) 繊維 『帝人の歩み. 5』(1970.09) 『帝人の歩み. 1』(社史ID:02000)の5巻
帝人(株) 繊維 『帝人の歩み. 6』(1971.09) 『帝人の歩み. 1』(社史ID:02000)の6巻
帝人(株) 繊維 『帝人の歩み. 7』(1972.10) 『帝人の歩み. 1』(社史ID:02000)の7巻
帝人(株) 繊維 『帝人の歩み. 8』(1973.11) 『帝人の歩み. 1』(社史ID:02000)の8巻
帝人(株) 繊維 『帝人の歩み. 9』(1974.11) 『帝人の歩み. 1』(社史ID:02000)の9巻
帝人(株) 繊維 『帝人の歩み. 10』(1975.12) 『帝人の歩み. 1』(社史ID:02000)の10巻
帝人(株) 繊維 『帝人の歩み. 11』(1977.06) 『帝人の歩み. 1』(社史ID:02000)の11巻
帝人(株) 繊維 『人と化学と100年 : 帝人のあゆみ : 1918-2018』(2021.04)
帝人(株) 繊維 『Humanity, chemistry, and our 100 years : the Teijin story : 1918-2018』(2022.01)
帝都高速度交通営団 鉄道・バス 『営団地下鉄五十年史』(1991.07)
電気化学工業(株) 化学工業 『電気化学工業株式会社三十五年史』(1952.03)
電気化学工業(株) 化学工業 『45年の歩み』(1960.11) 窒素肥料のほとんどを輸入していたわが国では、第1次大戦後の好況期に多くの化学工業会社が起こる。カーバイド・石灰窒素などの化学工業品の製造・販売を目的に、1915年三井系有力者により電気化学工業(株)が設立される。発起人渋沢栄一、初代会長は馬越恭平。酢酸工業にも進出し、渋沢栄一が相談役を務めた日本醋酸製造(株)を1941年に吸収合併。45年史は現況、製造、沿革、当社発展のあと、という構成。
(社)電気協会 電気機器 『電気協会十年史』(1932.04)
(株)天賞堂 小売業 『商道先駆 : 天賞堂五十年の回顧』(1939.06) 千葉出身の江沢金五郎(1852?-1896)は1879年(明12)東京銀座に印房店の天賞堂を創業。皇族や文人、清国からも広く注文を受ける。1888年(明21)頃から時計や高級宝石の輸入販売を開始。定価販売や品質保証制度を実施し信用を得る。1890年(明23)の第3回内国勧業博覧会以来内外の博覧会に工芸品を出品、最高賞を何度も受賞し評判を呼ぶ。1904年(明37)米国コロムビア社の写声機(蓄音機)を発売しレコードも制作、音曲の内容を「美音の栞」として頒布する等、独創的販売方法で業績を伸ばす。[1906年には渋沢栄一が演説をレコードに録音している。]50年史は創業からの歩みを創業者の弟が語ったもの。本文の随所に看板、広告文、報道記事などを引用している。
(株)電通 サービス業 『電通66年』(1968.12)
(株)電通 サービス業 『虹をかける者よ : 電通90年史 1901-1991』(1991.06)
東亜建設工業(株) 建設 『百年の軌跡 : 東亜建設工業の歩み』([2007])
東亜建設工業(株) 建設 『東亜建設工業百年史』(2008.03) 浅野総一郎(あさの・そういちろう、1848-1930)は渋沢栄一らの支援を受け壮大な事業を次々と展開し、1896年(明29)東洋汽船を設立。欧米港湾を視察し日本の港湾の後れを痛感、東京湾に近代的な港をつくり、京浜間に大工業地帯をつくる計画に着手する。1908年(明41)鶴見・川崎地先の大規模埋立事業を神奈川県に出願し、1912年(明45)鶴見埋立組合を設立。翌年免許が下り工事に着手、事業は1914年(大3)創立の鶴見埋築が引継ぐ。浅野は1920年(大9)東京湾埋立を設立し、鶴見埋築を合併。後に東亜港湾工業を経て1973年(昭48)東亜建設工業と社名変更、総合建設業へ業容拡大する。100年史は沿革編と資料編から成り、沿革編第1部「東京湾埋立てに賭した壮大な夢」では、浅野総一郎の事業構想を詳述している。
(株)東亜興信所 サービス業 『東奔西走百年の歩み』(1992.03) 日銀の初代大阪支店長外山脩造(とやま・しゅうぞう、1842-1916)は欧米で信用調査機関の重要性を知る。関西地区の銀行30行の協力を得て、日本初の興信業として1892年(明25)商業興信所を大阪に設立。東京では第一銀行頭取渋沢栄一の主導で京浜地区の銀行26行の協力のもと、1896年(明29)東京興信所が発足。両者はそれぞれに業績を伸ばしていたが、1944年(昭19)戦時下の企業再建整備計画の一環として合併し、東亜興信所が設立された。1978年(昭53)にはホテル業に進出。創業100周年を記念して1992年(平4)にサン・トーアと商号変更。100年史は本文15章と付録から成り、本文では興信事業の起源から、それぞれの会社の創業者外山脩造と渋沢栄一の略歴と交友関係、商業興信所及び東京興信所の創業と合併までの経緯、合併後100周年に至るまでを記述。
東亜燃料工業(株) 石油 『東燃十五年史』(1956.07)
東亜ペイント(株) 化学工業 『東亜ペイント45年史』(1960.11)
東亜紡織(株) 繊維 『東亜紡織七十年史』(1993.02)
東海カーボン(株) 窯業 『東海カーボン六十五年史』(1983.12)
東海汽船(株) 海運 『東海汽船130年のあゆみ : History of 130 years』(2020.09) 東京湾内で海運事業を行う会社の合併により、1889(明治22)年に東京湾汽船会社が創立。合併前の会社の船舶と事業を引き継ぎ、現在の東京・神奈川・千葉各地の航路を運航した。翌年株式会社に改組。また、資材輸送をきっかけに三宅島、大島などへの離島航路を確立。1942(昭和17)年、社名を東海汽船株式会社に改称。本社史は『東海汽船80年のあゆみ』に続く社史として刊行された。黎明期、激動期、飛躍期の3つの時代に大別した全13編の本編、創立100周年事業として設立された東京ヴァンテアンクルーズ株式会社などのグループ会社小史、資料編等から成る。本編は編年体で組まれ、年ごとに出来事を記述。各所トピックスも充実している。東京湾内航路で激しく競合し互いに消耗していく海運各社に対し、渋沢栄一は同社の創立を指導。腹心の梅浦誠一らを経営に斡旋している。栄一自身は同社の役職には就かなかったが、梅浦はじめ歴代社長や役員には栄一とかかわりのある人物の名前が複数みられる。
(株)東海銀行 銀行 『東海銀行史』(1961.10) 1881年(明14)名古屋初の私立銀行として設立された伊藤銀行、1882年(明15)設立の名古屋銀行、1896年(明29)設立の愛知銀行の三行はそれぞれの特色を生かし多くの銀行を吸収しつつ発展していた。1941年(昭16)逼迫する戦時経済情勢の中、銀行集中政策により三行は合併し東海銀行が誕生。戦中戦後の混乱を乗り越え、復興の潮流にのって体制を整備、高度経済成長期に業容を拡大していく。本社史では前史に前身三行および各行吸収銀行の略史、本史に東海銀行の20年史を記載。店舗網の変遷には1961年(昭36)現在の現有店舗一覧も記載している。[2002年(平14)三和銀行と合併しUFJ銀行(現・三菱東京UFJ銀行)となる]
(株)東海銀行 銀行 『東海銀行史. 続』(1982.05)
東海パルプ(株) パルプ・紙 『東海パルプ六十年』(1968.04) 古来木材の産地であった静岡県大井川の源の井川山林を、大倉組頭取大倉喜八郎(おおくら・きはちろう、1837-1928)が1895年(明28)に入手。大井川水利権も入手し発電所を建設、1907年(明40)パルプ製造を目的に東海紙業創立。戦時中は航空機部品の製造を手がけ1943年(昭18)東海事業と社名変更。戦後は産業需要の傾向をとらえてクラフトパルプ事業に進出、1951年(昭26)東海パルプと社名変更。60年史はコンパクトな体裁ながら沿革と関係会社の略史、座談会、資料編からなる。[渋沢栄一が計画に関わった日英水力電気の発電所を引継いでいる]
東海パルプ(株) パルプ・紙 『東海パルプ90年史』(1998.10) 創立からの90年史であるが、60年史以降の30年を中心に、様々な産業用紙製造へ業容を拡大した歩みを記述している。表紙カバーには起業の原点である井川山林の写真を使用。
東缶興業(株) パルプ・紙 『東缶興業五十年の歩み』(1993.07)
東急建設(株) 建設 『東急建設の二十五年』(1985.10) 東京急行電鉄では戦災復旧のため1946年(昭21)東京建設工業を創立。1953年(昭28)五島昇(ごとう・のぼる、1916-1989)を社長とする東急不動産が設立されると翌年吸収合併され、同社建設工業部として建設部門を担当。1959年(昭34)同部は東急建設(株)として東急不動産から分離独立。高度経済成長とともに発展する。25年史は東京建設工業創立からの歩みを年代順に6部に分けて記述、技術開発や事業拡大の軌跡と共に1972年(昭47)の不祥事にも触れている。索引付で別冊の資料編あり。社史は『飛躍の十年』(1969)が出ている。
東急建設(株) 建設 『東急建設の二十五年. 資料編』(1985.10) 『東急建設の二十五年』(社史ID:00710)の資料編
(株)東急コミュニティー 不動産 『ふれ愛20年 : 東急コミュニティー』(1990.12)
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