収録社史一覧

業種"窯業" 社史一覧 全37件中20件 1件〜20件目を表示

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会社名 業種 社史タイトル(出版年) 会社沿革と社史メモ
アサノコンクリート(株) 窯業 『アサノコンクリート「40年のあゆみ」』(1991.11)
浅野セメント(株) 窯業 『浅野セメント沿革史』(1940.12) 1848年富山生まれの浅野総一郎は横浜で石炭売買に成功、王子の抄紙部へ石炭を納めたことから渋沢栄一に見出される。コークス納入先の深川の官営セメント工場を、栄一の紹介で1883年払下を受ける。栄一は出資者、監査役(1898-1909)。1930年総一郎没後浅野泰治郎が社長を継ぎ、総一郎と改名。沿革史は第1部は本邦セメント工業発祥の事情から1939年までの主要史実を編年体で記述。第2部は各工場や支店営業所の沿革・現況、商標などを横断的に記述。[1947年日本セメントに社名変更、1998年秩父セメントと合併]
旭硝子(株) 窯業 『社史』(1967.12) 我が国の窓ガラス製造業は1900年頃には企業化が試みられたがいずれも頓挫していた。岩崎弥之助の次男俊弥は国産窓ガラスの製造を志し、1907年兵庫県尼崎に旭硝子(株)を設立、社長となる。社名は弥之助の発案、社章は岩崎家の家紋菱印を図案化したもの。板ガラス、その原料のソーダ、耐火炉材の3事業の国産化を図る。1944年日本化成工業と合併し三菱化成工業(株)となるが、戦後財閥解体により1950年旭硝子(株)として再発足。社史は設立から1966年までの60年史で、編年体の総合史と事業ごとの部門史からなる。
旭硝子(株) 窯業 『旭硝子100年の歩み : 伝統・創造・革新』(2007.09)
旭硝子(株) 窯業 『旭硝子100年の歩み : 伝統・創造・革新. 資料編』(2007.09) 『旭硝子100年の歩み : 伝統・創造・革新』(社史ID:04130)の資料編
麻生セメント(株) 窯業 『麻生百年史』(1975.04) 筑前の庄屋の息子麻生太吉は1872年石炭採掘事業に着手。1881年嘉麻社を設立、次々と業容を拡大し、筑豊有数の炭鉱主として産業基盤づくりをはかる。銀行・電力・鉄道事業から医療関連事業にも発展。太吉没後1934年に孫の太賀吉が(株)麻生商店と産業セメント鉄道(株)の社長に就任。石炭からセメント事業へ重心を移し、1966年麻生セメント(株)発足、麻生グループは40社に及ぶ。1973年から社長に麻生太郎就任。百年史は本史の他、多くの寄稿文に加え膨大な資料を1冊にまとめた1500頁を超える大作。
小野田セメント(株) 窯業 『回顧七十年』(1952.12) 1881年創業のセメント製造会社は1891年有限責任小野田セメント製造(株)と改称。内外に業容を拡大するが敗戦により海外の工場を失う。しかし積極経営で損失を克服、1951年小野田セメント(株)と社名変更する。70年史は前半が年代ごとの沿革、後半は工場・品質・福利厚生等の資料編。[1994年秩父セメントと合併し、秩父小野田セメント(株)となる]
小野田セメント(株) 窯業 『小野田セメント百年史』(1981.08)
小野田セメント製造(株) 窯業 『小野田セメント製造株式会社創業五十年史』(1931.09) 1881年山口藩の理財家笠井順八は士族救済と授産のために、わが国初の民間セメント会社として山口県原狭郡西須恵村(今の小野田市)にセメント製造会社を創設。1891年有限責任小野田セメント製造(株)と改称。輸出により外貨を獲得し、朝鮮・満州にも進出。50年史は前半で沿革を述べ、後半は支社・工場の現況と資料編。写真・図表目次と総索引付。
黒崎窯業(株) 窯業 『黒崎窯業五十年史』(1969.12) 八幡製鉄所で炉材の耐火煉瓦製造研究をしていた高良淳は、第一次大戦後の耐火煉瓦企業の将来性を見て退職し起業を図る。松本健次郎(まつもと・けんじろう、1870-1963)の出資を得て1918年(大7)北九州の黒崎町に黒崎窯業(株)を設立。翌年操業を開始し製鉄業の興隆とともに発展。1956年(昭31)八幡製鉄(株)と企業提携し経営安定化と合理化をはかる。50年史は社内の執筆で総合史、生産・技術史、部門史、その他の4部からなり、その他には回顧録や「耐火物工業の歴史」の項も含む。[2000年(平12)ハリマセラミック(株)と合併し黒崎播磨(株)となる]
品川白煉瓦(株) 窯業 『創業100年史』(1976.12) 1836年江戸生まれの武士西村勝三は維新後東京会議所委員となる。国産煉瓦製造をめざし1875年渋沢栄一らの協力を得て東京会議所瓦斯製造所内に工場を作り、ガス発生炉用の耐火煉瓦(白煉瓦)の製造を始める。1884年工部省所管の白煉化石製造所の払下げを受け、伊勢勝白煉瓦製造所を設立。1887年品川へ移転し、品川白煉瓦製造所と改称。1903年品川白煉瓦(株)へ改組。栄一は相談役(1907-09)。100年史は総合史、部門史・現況、資料から成り、千ページを超える大作。
住友大阪セメント(株) 窯業 『住友大阪セメント百年史』(2008.03) 福島県石城(いわき)郡の八茎(やぐき)鉱山産出の石灰石に着目した実業家広瀬金七と岩崎清七(いわさき・せいしち、1865-1946)は、発起人を募り1907年(明40)横浜に磐城セメントを創立。新技術の回転窯を導入し、より高い生産性を目指して発展する。1963年(昭38)住友グループに参加し、住友セメントと改称。一方1882年(明15)大阪に設立の硫酸瓶製造会社は、業態を変え大阪窯業、大阪窯業セメントと改称し、1963年(昭38)大阪セメントとなる。1994年(平6)経営強化のため両社は合併し、住友大阪セメントが発足。磐城セメント創立からの100年史は11章までが住友セメントの沿革で、1-10章は『住友セメント八十年史』(1987年刊)の要約。12章に大阪セメントの沿革を置き、13-14章に合併後の歩みを記述している。索引付。
住友セメント(株) 窯業 『住友セメント八十年史』(1987.10) 福島県石城郡の八茎鉱山産出の石灰石を、横浜の事業家広瀬金七と東京の事業家岩崎清七が着目、発起人を募り1907年横浜に磐城セメント(株)設立。積極経営で業容を拡大、戦後も復興の波に乗り業績が伸びる。1962年福島セメント(株)設立を機に住友グループに接近し、1963年同グループに参加、住友セメント(株)と社名変更。80年史は6章までが磐城セメントの歩み、7~10章が住友セメントになってからの足跡を時代ごとに記述している。
セントラル硝子(株) 窯業 『セントラル硝子三十五年史』(1972.07) 炭鉱経営者から山口県宇部市長となった国吉信義(くによし・のぶよし、1882-1972)は、郷土の産業振興を目論む。宇部セメント幹部にソーダ工業の事業化を勧められ、アンモニア法ソーダ製造の宇部曹達工業を1936年(昭11)創立。戦時期は統制を受けるが、戦後は化成肥料や板ガラス事業等へ進出。1958年(昭33)設立したセントラル硝子を1963年(昭38)合併、新商号をセントラル硝子とし、総合化学企業として発展する。35年史は通史と部門史からなり、冒頭で日本のソーダ工業の歴史を概観し、板ガラス工業の歴史にも触れている。
秩父セメント(株) 窯業 『秩父セメント五十年史』(1974.08) 1862年埼玉県生まれの諸井恒平は、縁戚の渋沢栄一の推挙で日本煉瓦製造や秩父鉄道の経営に参画。実業人としての知識と経験を積み、武甲山石灰石の開発によるセメント起業をもくろみ、財界有力者の賛同を得て1923年秩父セメント(株)創業。50年史は本編が沿革と創業3代社長の小伝、資料編は生産技術、業績分析の本文と資料・年表。業界史部分は簡潔で、会社の設立経緯とその後の発展を主軸にしている。[1998年日本セメントと合併し太平洋セメント(株)となる]
東海カーボン(株) 窯業 『東海カーボン六十五年史』(1983.12)
東陶機器(株) 窯業 『東陶機器七十年史』(1988.05) 日本陶器社長大倉和親(おおくら・かずちか、1875-1955)は欧州での体験から、洗面所やトイレの衛生陶器製造の必要性と有望性に着目。1912年(明45)製陶研究所を創設し衛生陶器の研究開発を進める。九州・小倉に工場を建設し、1917年(大6)東洋陶器(株)を設立。衛生陶器と磁食器生産を開始し東南アジア市場へも進出。第二次大戦後は水栓金具やユニットバス等も開発し業容を拡大する。1970年(昭45)東陶機器に社名変更。70年史は序章の創業前史に続き、9章にわたり沿革を詳述。衛生陶器の歴史写真を口絵にまとめ、本文欄外にも写真、図表、エピソードなどを掲載。[2007年(平19)TOTO(株)に改称]
日本板硝子(株) 窯業 『日本板硝子株式会社五十年史』(1968.11) 大阪の商社勤務の杉田与三郎(すぎた・よさぶろう、1885-1966)は画期的発明のコルバーン式板ガラス製造販売を企図し、米国リビー社の特許譲渡を受け1918年(大7)日米板硝子(株)を大阪に設立。翌年九州に工場を建設し生産販売開始するが、業績不振で1922年(大11)住友(資)の出資を受け再建する。1931年(昭6)国産品愛用奨励を受けて日本板硝子(株)と改称。戦争の混乱を乗り越え戦後は経営基盤を強化し、新製法のフロート式板ガラス製造へ進出。50年史は冒頭に「ガラスの生いたち」としてガラスの起源と日本での製造史を簡潔に述べ、渋沢栄一の関わった品川硝子会社、磐城硝子会社にも触れる。創業からの歩みは時代順に10の章立てで詳述している。
日本碍子(株) 窯業 『日本碍子株式会社三十年史』(1949.05) 明治後期に日本の電力界は高電圧長距離送電時代に入り、高圧碍子の需要が高まる。1904年(明37)設立の日本陶器は碍子製造に着手し、1909年(明42)に初出荷。社長の大倉和親(おおくら・かずちか、1875-1955)は性能向上をめざし高圧碍子の研究を重ね、1919年(大8)碍子製造業を分離して日本碍子を名古屋に設立。電力需給の伸長と共に業績を拡大する。第二次大戦後は進駐軍設営用碍子を始め受注が増加し、輸出も再開して復興を果たす。30年史は沿革と現況からなり、付録として年表、功労者略伝、特許・実用新案、登録商標等を掲載。本文中に多くの写真・図表を取り入れている。[1986年(昭61)社名表記を「日本ガイシ」に変更]
日本ガイシ(株) 窯業 『日本ガイシ75年史』(1995.03)
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